中学受験800字コラム:第2編
・中学受験の受験指導をしていて思ったこと、感じたことを書いてみました。お子様の中学受験指導の参考にしていただけたら、と思っています。■その11 ~ 答えを写す子ども ~
家庭教師という仕事に就いてから、様々な生徒たちと出会ってきましたが、数年おきぐらいのペースで「答えを写す子ども」に出会います。
小6生は秋以降になると志望校の過去問題集に取り組むことになりますが、なかなか点数が取れなかった生徒がある時急激に点数が跳ね上がることがあります。
これはたまたま得意分野が出題されたり、実力の向上が形となって表れたりした結果であることもありますが、問題集の解答をそのまま写している場合も往々にしてあるのです。
それも記述解答の一部を変えたり、記号選択問題の何問かをわざと間違えたりと、子どもも必死です。しかし、生徒の態度や解答の仕方から、解答を写したことはだいたい分かってしまいます。
子どもがそこまでするのは余程のことです。子どもが自分のプライドを守るために行うケースもありますが、ほとんどが保護者に点数が悪いことを叱られ続けた結果、止むに止まれずというケースです。
ここで私が子どもに解答を写していることが分かっていることを伝えたとしても、子どもを精神的に追い込むだけです。ですから、子どもに対してはあえて気づかないフリをして、保護者の方々には過去問の点数のことで子どもを責めないよう、ご忠告します。
大人から見れば、子どもの努力が不十分に見えるのは確かです。しかし、子どもは子どもなりに頑張っているという認識があるので、点数のことで叱られると、「頑張っても意味がない」と考え、場合によっては解答を写すというゴマカシに走ります。精神的な弱さゆえのことで、子どもは責められません。
テストや過去問の点数が悪いことで子どもを叱っても、いいことはありません。結果は結果として受け止めさせた上で、前向きに努力するように配慮することが、私たち大人の役割だと思うのです。
■その12 ~ 国語を勉強しない子ども ~
昔の話なのですが、私が塾で受け持っていた小6の女の子が、「国語なんて勉強しても意味ないよねえ」と豪語していたことがいまだに忘れられません。
その女の子は中堅上位の大学付属校に合格し、進学しました。今は大学生になって、そろそろ就職活動といったところでしょう。彼女が将来自分の子どもに同じことを言うのかもしれないと思うと悲しくなります。
私が家庭教師で国語を教えていると人に話すと、「国語って、何教えるんですか?」と言われることがたびたびあります。国語は勉強してどうこうする科目ではないという認識が世間に広まっているのかもしれません。
確かに、国語は幼い頃から読書量を積んできた子どもがそれほど勉強をしなくても、テストで高得点が取れることがある科目です。また、算数における公式のような決まった解き方があまりないので、教えられて成績が伸びる科目ではないと捉えられるのでしょう。
しかし、文章における内容をどのように頭の中で整理して読んでいくか、問題の正しい選択肢をどのように絞っていくかなどを教えることで、生徒たちの成績が伸びていくのをこの眼で見てきました。他科目と同様、国語にも「コツ」というのが確実に存在します。
私は受験指導のプロですので、得点力を伸ばすことに主眼を置きますが、例えば学校の先生などの国語の優れた指導者は、一つの文学作品に対して、私たちの理解の仕方とは違った視点を提示したりすることで、私たちの知性に新たな地平を切り開いてくれます。
「ことば」なしでは私たちは生きていけません。そういう意味で、「ことば」は私たちの人生の根幹です。国語という科目でその「ことば」について様々なことを深く学ぶことで、私たちの人生はより充実していきます。
国語を学ぶことは重要ですし、勉強すれば成績を伸ばせます。「国語を勉強することは意味あるよねえ」なのです。
■その13 ~ 受験のために本を読む子ども ~
生徒の保護者の方々から、「国語の成績を上げるために、本を読ませた方がいいですか?」という質問をよく受けます。「本を読ませた方がいいですよね?」と半ば断定調でおっしゃる保護者の方も少なからずいらっしゃいます。以上のような質問に対して、私はこう答えています。「強制された読書はお子さんのためにはなりません」と。
私が家庭教師でお宅に伺う際、お子さんの勉強部屋の本棚に、中学受験でよく出題されている作品がずらりと並んでいることがよくあります。そういうご家庭のお子さんは国語の成績がいいかと言えば、そうでもないことが多いのです。だから、そのご家庭は私のような家庭教師を呼ばれたわけで。
読みたくもない本を読まされるという作業は子どもの感性を響かせることもなく、無意味だと言い切れます。だからといって、子どもに読書を勧めない方がいいというわけではありません。子どもに本を読むきっかけをつくってあげることは、むしろ必要です。
こういう本がある、ああいう本があると子どもに紹介することは、大人の大切な役割だと思います。しかし、その本を読むかどうかの判断は子どもに任せる。あくまで、強制はするべきではありません。
国語力を養うためには、ロールプレイングゲームやストーリー性のあるマンガやアニメも効果的であると私は考えます。この意見は国語の先生の多くは否定するかもしれません。しかし、私が出会ってきた、国語が苦手な生徒たちの多くが読書に興味がないのはもちろんですが、ゲームやマンガ、アニメにも興味がない場合が多いのです。
やはり、子どもにはきっかけが大事なのです。ゲームやアニメに興味を持って、それに関連する書籍を読んで、読書に慣れ親しむようになるということはよくあることです。それぞれのお子さんに合ったきっかけを作ってあげることが大切だと思います。
■その14 ~ 歪んだ国語学習を強制させられる子ども ~
中学受験の指導を始めてから十年を超える月日が流れました。「十年一昔」という言葉があるように、指導で関わる子供たちのマインドも変わりましたが、それ以上に変わったのが国語の入試問題そのものです。
どのように変わったのか、端的に言うと「難しくなった」。近年は大学入試のセンター試験で出てくるようなレベルの論説文が出題されることが珍しくなくなりました。物語文の問題でも、行間から読み取ることも難しい登場人物の微妙な心情の説明を求めるような問題が見受けられます。また、試験時間から考えて明らかに問題文が長過ぎたり、問題数が多過ぎたりすることもよくあります。
誤解がないように申し上げると、いわゆる難関校の問題は難しいけれども、どのように解けばいいかという答えへの道筋が明確に見える、理にかなった問題が多い。一方で、答えへの道筋が見えない理不尽な問題を出題する学校が増えてきたように感じます。問題文の長さや問題数が理不尽な学校も増えました。
そのような理不尽な問題に対処する術はあります。しかし、それは解法というかテクニックの部類です。すでに、問題自体が子どもの読解力を適正に問うものになっていません。
今のような問題傾向のままだと、中学受験をする子どもたちは周りの大人に小学生に不釣合いな難解な本を読むことを強制されたり、意味のない速読の訓練をさせられたりすることになってしまうのではないかと危惧します。
どうして、国語の入試問題が「難しくなった」のか?それは、国語の入試問題が単に読解力を問うだけでなく、短時間にどれだけ情報を処理できるかという「情報処理能力」が問われている一面があるからだと考えられます。しかし、それは国語という教科の本質からは逸脱していると言わざるを得ません。
歪んだ国語学習を強制させられる子どもたちを増やさないためにも、読解力を適正に問う入試問題が増えてきてほしいものです。
■その15 ~ 自主性を尊重される子ども ~
子どもが中学受験をするという決断は同級生に影響されて子どもの方から受験をしたいと言い出す場合もありますが、たいていは保護者がするケースが多いかと思います。子どもから見れば、中学受験をすることは親の決定に従っているだけなので、受験に対する自覚が薄いのは仕方がないところでしょう。
子どもの受験への自覚を促すために、家庭学習のやり方や進み具合の把握などを全て子どもに任せ、果ては志望校の決定も全て子どもにさせる保護者の方々がいらっしゃいます。
そのような「子どもの自主性を尊重する」という理念自体はすばらしいのですが、中学受験においては結果的にうまくいかないことが多いです。小学生は精神的に未熟な子が多いので、自己管理や自分ひとりで物事を決めることが難しいのです。子どもの自主性を尊重して受験がうまくいくケースもありますが、それは小学生にして高い自己管理能力を備えている子どもの場合です。
ですから、自分のお子さんの自己管理能力を冷静に見極めてから、受験対策を練ることが大切です。「うちの子はちょっと厳しい」と思われたら、やはりお子さんをできるだけバックアップする必要があります。
バックアップといっても、子どもの学習につきっきりになったり、子どもに勉強を教えたりするということではありません。リビングで学習させるなど、保護者の目の行き届く範囲で子どもを勉強させるだけでも学習効果は全然違いますし、子どもが寝る前にその日の家庭学習の状況を保護者がチェックすることも有意義でしょう。要は、「大人が見ている」ということを子どもに意識させることです。
手とり足とりやる必要はないのです。むしろ主導権は保護者が握りつつ、子どもに「自分の自主性は尊重されている」と思わせることが望ましいのです。子どもとの距離感は保ちつつ、子どものために環境を整えてあげることが周りの大人たちの重要な役割なのです。
■その16 ~ 大人に切り捨てられる子ども~
これまでのコラムでも触れたように、一部の私立中学の入試問題は難化の一途をたどっています。また、志望校の選択など受験に関する決定を子どもに丸投げする保護者も年々目立つようになりました。以上に挙げた二つのことには関連性があるように思います。
入試問題の難化は抽象的な事柄など難しいことを大人が苦労して説明しなくても理解できる「完成された」子どもに入学してきてほしいという学校のマインドの表れだと思います。手がかからない生徒がほしいというのは理解できるのですが、まだ発達段階の「伸びしろがある」子どももたくさんいるわけで、難しくなってしまった入試問題ではそういう子どもが弾かれる危険性が大いにあります。
受験に関する決定を子どもに丸投げする保護者に関してですが、保護者が子どもに自律的な成長を促しているように見えて、結局は大人の手のかからない子どもを望んでいるように感じられます。小学生の段階で精神的に幼い、いわゆる手のかかるタイプの生徒が中学生、高校生の段階で飛躍的に成長を遂げることは多々あるものです。
一概には言えないのですが、近年子どもの成長を長期的に見据えた動きが少なくなってきたように思えてなりません。早熟な子どももいれば、いわゆる大器晩成型の子どももいるわけで、それぞれの子どもに合わせた教育のスタイルがあるのですが、特に中学受験に関しては早熟な子ども以外は切り捨てるような流れになっているような気がします。
一部の国立・私立中高での教育はいわゆるエリート教育の一環と言えるので、それでもいいのかもしれませんが、それだけでは埋もれている才能が見過ごされてしまいます。大人が子どもの潜在能力を見抜き、子どもの意思を尊重しつつ、適切に導いていくことが大切です。子どもの才能を冷静に見極める一方で、子どもを見捨てることなくサポートし続けることも大人の役割だと思うのです。