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家老・西郷頼母 (さいごう・たのも)

名前 西郷頼母(諱:近悳 ちかのり)→保科頼母
誕生 天保元年(1830)。会津藩家老西郷近思長男として誕生。母は会津藩士小林氏次女律子。西郷家は藩祖保科正之の分家で、代々筆頭家老の家柄。
死没 明治36年(1864)、江戸で病没。享年数え67歳。
小史 西郷頼母は会津松平藩の名門に生まれ、文久2年(1862)に32歳で筆頭家老(国家老)となった。同年8月、藩主容保に京都守護職の内命が下った時(★)には、同職田中土佐とともに江戸に駆けつけ、国力に鑑み、強く反対したが聞き入れられず()、閏8月、容保は守護職を拝命した。文久3年(1863)4月に上洛し、容保に守護職辞職を求めるが容れられず、家老を辞し(罷免されたとも)、以後5年間、会津で幽居生活を送った。慶応4年(1868)に旧幕軍が鳥羽伏見の戦で敗走し、容保が会津に帰国してから家老に復職。しかし、恭順謝罪を説き、登城さしとめ・蟄居処分を受けた。新政府軍が城下に迫るのをみて、禁を犯して登城するが、再び恭順を説いて主戦派と対立し、越後口方面への使者にかこつけて城を出された。頼母が登城した後、屋敷に残った一族21名は、戦闘で足手惑いになるのを恐れて自刃した。頼母は米沢・仙台を経て五稜郭に至り、五稜郭降服後は、しばらく館林藩に幽閉された。その後は神官として余生を送り、一時は日光東照宮宮司を務める旧主容保のもとで禰宜も務めた。
評判 調査中。
詩歌 辞世「あいづねの遠近人に知らせてよ保科近悳今日死ぬるなり」
備考 溝口派一刀流・甲州流軍学を学び、大東流合気柔術の継承者。養子に「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎。

関連:「史跡」「武家屋敷」←頼母の屋敷が復元されている。

略年譜

天保1
(1830)

3月−会津藩江戸詰家老西郷近思長男として誕生。
安政1
(1854)
22
番頭になる。
文久2
(1862)
32
*この年、家老となる(留守家老として会津に)。

7/27幕府、京都守護職設置を決定。(『再』)【詳しく
8/7 - 春嶽、容保に京都守護職固辞に対して、就任を勧告する書簡を送る。春嶽、会津藩和田倉屋敷を訪ねて、深夜まで病床の容保の守護職就任を説得。容保、国許と相談するため、急使派遣。(『七』・『京』)【詳しく】*『再』では、春嶽は8日に容保を訪問。家老横山常徳・用人堀七太夫も同席。
8/19〜20 - 西郷頼母、国許から田中土佐とともに早駕籠で上府【詳しく】。辞退を進言するが、藩論は拝命に決まる。(『七』・『京』・『再』)【詳しく 】
閏8/1-容保、将軍から京都守護職に任ぜられる
文久3
(1863)
33
4月−頼母、上洛して守護職辞任を説得するが聞き入れられず。
10月−病に託して家老を辞任(『会津人物事典』より。『幕末会津藩』によれば罷免される)
元治1
〜慶応3
長浜村の楢雲亭で5年間隠居生活を送る。
慶応4
/明治1
(1868)
38
1月−鳥羽伏見の戦
2月−藩主松平容保帰国。
4月−復職する。
−容保に恭順謝罪を説得するが聞き入れられず、新政府軍が会津に接近すると白河口総督として出陣する。会津軍は敗れて撤退。再び恭順を主張して主戦派と対立。登城さしとめ・蟄居処分を受ける
8月22日新政府軍が城下に接近するのをみて、禁を犯して、息子(一子)吉十郎とともに登城。再び容保に恭順を説得する
8月23日−西軍が城内進入をみて一族21名が屋敷で自決。主戦派に恭順論頼母暗殺の動きがあり、それを察した容保は頼母と吉十郎を、越後口から帰陣する家老萱野・上田への使者に立てて城から出す。(頼母殺害を計画していた主戦派の家老梶原平馬は、24日、頼母に容保の御意を伝えて城外に出し、同時に砲兵隊組頭大沼城之介と遊撃寄合組隊芹沢生太郎を刺客をさしむけたが、両名は暗殺の命令をきかず、西郷を見失ったと報告したもという)

その後、米沢から仙台を経て箱館の五稜郭に入る。
以降 明治2年(39歳)5月−五稜郭降服。このときも、榎本に恭順を勧めたという。
同年9月−館林藩に幽閉される。
明治3年(40歳)2月−幽閉が解かれる。
  西郷姓を本姓の保科に復して、保科頼母を名乗る。
明治8年(45歳)8月−磐城国の神社の宮司となる。
明治11年(48歳)6月西南戦争に加担した疑いで職を去る
明治12年(49歳)−息子吉十郎死去。志田四郎を養子にする(→西郷四郎)
明治13年(50歳)2月容保が日光東照宮宮司となる。頼母も禰宜となり容保を補佐
明治20年(57歳)4月−神官廃止にともない若松に帰郷。
明治22年(59歳)4月−岩代霊山神社の宮司となる。
 県師範学校の嘱託として講義を始める。
明治26(63歳)年−従7位に。
明治32(69歳)年−宮司を辞し、若松に帰郷。
明治36年(73歳)4月−病没。


<参考>『会津人物事典(武士編)』、『幕末会津藩』、『明治維新人物事典』


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