9月の幕末 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■容保の守護職就任 【江】文久3年8月20日、会津藩は評議の上、守護職拝命を決めました。 江戸家老横山常徳(主税)や留守居役堀七太夫に国家老田中土佐・西郷頼母を交えた評議は前日から続いていました。(こちら) 席上、西郷は拝命の不可を強く主張しました。『京都守護職始末』(明治44年版)によれば「幕府近時の情勢より時勢の非なるを開陳し、今の時此至難の局に当るは、所謂薪を負うて火を救ふにひとしく、恐らくは労多くして其功なからんと言辞凱切、至誠面に溢る」だったそうです。 これに対して容保は同席していた横山・堀にこう言ったそうです。 「是(=西郷の言ったこと)実に余の初志なり、然るに台命(=将軍の命令)頻に下り、臣子の情誼今や辞するに詞なし、且窃に聞く、初め予の固辞する再三なるに及び、或は是を一身の安を計るとなすものありと、抑も我家、宗家と盛衰存亡を倶に共にすべしとは、藩祖公(=保科正之)の遺訓(参照:「家訓」」第一条)、加ふるに数代降恩に浴せるを、予不肖と雖も一日も其報效を忘るべけんや、唯不才万一の過失より、累を宗家に及ぼさん事を恐るるのみ、素より他の批判に依りて進退を決すべきにあらずと雖も、苟も安を貪るとありては、亦決する所なかるべからず、さはれ斯る重任を拝せんも、君臣一致にあらざれば、其報效期すべからず、卿等宜しく審議を尽して予の進退を決すべし」 横山を始め、一同は容保の衷悃(=衷心からのまごころ)に感激し、義を重んじ、他日についてとやかく言うべきではないと、「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と議決したそうです。 また、『七年史』では容保は 「藩祖以来、降恩を荷うて今日に至る、国家の為めに報効を謀るべきは元より我任なり。今や宗家の困難に当り、大将軍は総裁職を吾が臥床に遣はされて、就職すべきの御依頼を辱うす、其事に当らずして、強て辞するは吾が志にあらざるなり」と述べ、その言葉をきいて感激した横山・田中・堀らも就任を勧め、西郷も涙して賛同したとされています。 *適宜、旧字は当用漢字に変換しています。 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「守護職就任」「所司代人事 ■守護職日誌文久2 (2002.9.25) ■勅諚改竄 【江】文久2年8月20日、長州藩世子毛利定広は、勅使大原重徳から改竄の勅諚を受領しました。長州藩は、8月2日に朝廷から受領した勅諚(こちら)を大原に返還し、改竄された勅諚を受け取りました。(なお、同月25日、改正された勅諚が在京の藩主敬親に授けられました)。 その後、定広は高輪の薩摩藩邸に島津久光を訪ねて長州藩の周旋の真意と勅諚改竄の事情を述べ、薩摩藩の協力を求めたそうです。しかし、久光の長州藩への反発は強く、両者はただ会見したという状態に終ったそうです。(勅諚改竄の背景にある薩長の対立はこちら)←そもそも、久光が勅使大原重徳とともに江戸入りする前日に、長州藩主毛利敬親が久光を避けるように江戸を出立したことで、薩摩藩は感情を害し、両藩の仲は険悪になっていた(【余話:薩長の「鴻門の会」】 関連:■テーマ別文久2年:「長州藩世子毛利定広の大赦奉勅東下」「薩長融和の勅諚改竄」■薩摩藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2 (2002.9.25) ■公武合体派排斥 【京】文久2年8月20日、朝廷は岩倉具視・千種有文・富小路敬直(公武合体派公卿、いわゆる「四奸」)の蟄居を命じ、辞官・落飾を請わせました。 彼らは7月末に近習を辞職していましたが(こちら)、薩摩藩士藤井良節・本田弥右衛門、また村井政礼ら尊攘激派による排斥運動はとどまらず、8月16日には激派公卿(三条実美・姉小路公知・壬生基修・正親町公菫ら)13人による「四奸」弾劾書が近衛関白に提出されていました。 関連:■テーマ別文久2「公武合体排斥」(2002.9.25) |
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