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文久2年8月19日(1862年9月12日)
【江】守護職就任:国許から家老田中土佐・西郷頼母が上府
【江】勅諚改竄:長州藩世子毛利定広江戸着。
桂小五郎ら議して改竄の勅諚受領を決定。

■容保の守護職就任
【江】文久2年8月19日、藩主松平容保の守護職就任について評議するため、国許から家老田中土佐・西郷頼母が上府し、評議をしました。評議は19日、20日の2日間かかりました。

<ヒロ>
日付は、「再夢紀事」によりました。

『七年史』では、春嶽に説得されたときに、将軍の信頼に深く感じ入り、大義のために台命(将軍の命令)を奉じようと国許と相談するために急使を遣わし、田中らはすぐさま江戸に向ったことになっていますが、「再夢紀事」では、内命を伝えられた会津がすぐ国許に急使を送ったとしているのはすでに紹介したとおりです。7月29日には早馬が会津に向いましたが、なかなか返答はありませんでした。しびれを切らした春嶽に国許の返事を待っていたのでは将軍の叡慮尊奉の遅延となるので、早々に決意をと説得したくらいでした。

参考:『京都守護職始末』・『七年史』・『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.25)
関連:■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「守護職就任」「所司代人事

■勅諚改竄
【江】文久2年8月19日、大赦の勅諚を携えた長州藩世子毛利定広が江戸に到着しました。

定広は予定通り先ず大原重徳及び島津久光を訪問しようとしましたが、婉曲に断られたため、そのまま桜田の藩邸に入りました。(久光は長州藩に反発していた模様^^;)

定広は桂小五郎ら主だった者を集めて改竄の勅諚受領について善後策を講じさせました。その結果、
<勅諚の伝宣は藩主に改正の沙汰が下るまで見合わせることになったが、聞くところによると、幕府は伝宣前に勅諚の旨を実行しようとしているらしい。もし、そういうことになれば、これまでの尽力周旋は水の泡である。伏見一挙がどうのということは勅諚中の一條過ぎず削除しても全体に影響はない。今は早く大原から(大赦対象から寺田屋関係者を削除した改竄の)勅諚を受領するほうが得策というものだ>
と決したそうです。

(勅諚改竄の背景にある薩長の対立はこちら

参考:『徳川慶喜公伝』(2002.9.25)
関連:■テーマ別文久2年:「長州藩世子毛利定広の大赦奉勅東下」「薩長融和の勅諚改竄■薩摩藩日誌文久2  ■長州藩日誌文久2

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