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文久2年7月27日(1862年8月22日)
【江】幕府、京都守護職設置を決定
【京】長州藩主父子に滞京・東下周旋の朝命。
世子定広の東下に決まる。

■容保の守護職就任
【江】文久2年7月27日、幕府は新たに京都守護職を設置することにしました。

罷免された所司代酒井若狭守(忠義の後任人事は難航していました。会津藩主松平容保へとの声もありましたが、所司代は譜代の職務であり、会津藩は不満でした(こちら)。それで大坂城代だった本庄宗秀が任命されましたが(こちら)、京都での受けが悪く朝廷から更迭するよう要求があり、赴任することができませんでした。そうして再び容保の名が浮上しました。当時、京都には諸藩士や浪人が集まって不穏であり、譜代藩では鎮撫も行届かず、この状況を打開するには、門閥といい兵力といい会津以外にはないということになったのです。

この日の幕議は、譜代の職の所司代にというのではなく、新たに京都守護職を設置して京都警衛を一切委任するということになれば、君臣ともに満足するだろうと、守護職設置を決めました。しかし、当の容保は、その頃、病気で登城せず、幕議に参加していませんでした。そこで、春嶽が退城後に会津藩邸に赴き相談することになりましたが、退城が夕方になったのでその日の訪問はとりやめられました。

(「再夢紀事」)↓
若州(=若狭守)跡所司代之儀は、先日より之御難評に而会津と申儀も有之候得共、御普代之勤場處故、藩論不満之趣ニ付伯州(=伯耆守)へ被命處、是亦故障有之赴任にも難及。此節輦下(=京都)へ諸藩士浮浪輩集不穏折柄、一ト通り之普代衆ニ而は鎮撫も行届申間敷、門閥と云ひ兵力も有之会津之外は有間布に付、新たに京都守護職を被命、御警衛向一切当と申事に相成候はば、君臣共ニ満足も可致との御決評ニ相成。右之趣公(=春嶽)御帯出より会邸へ御入りニ而 会候近来御所労にて不勤 会候及重役へも御相談ニ可被及御談之處御帯出薄暮ニ相成ニ付今日は不被為入しなり(適宜当用漢字に変換byヒロ。句読点もヒロ)

参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.22、2003.7.27)
関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「容保の守護職就任」「京都所司代人事

■長州藩世子の奉勅東下
【京】文久2年7月27日、長州藩主父子(毛利敬親・定広)に対して一人は滞京、もう一人は東下して朝旨の貫徹を周旋するようにとの朝命が下りました。これを受け、長州藩は世子定広を東下させることに決め、翌28日に奉答しました。

参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2002.9.22、2003.7.27)
関連:■テーマ別文久2「長州藩世子毛利定広奉勅東下


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