9月の幕末 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

◆8/7へ   次へ

文久2年8月8日(1862年9月1日)
【江】守護職就任:春嶽、直々に容保の京都守護職就任を説得

■容保の守護職就任
【江】文久2年8月8日、政事総裁職松平春嶽は、会津藩邸を訪問し、藩主松平容保の京都守護職就任を直々に説得しました。(容保は病でしばらく登城していません)。

この日登城した春嶽は、京都の事情が切迫している件(7月下旬より天誅事件が頻発)に関して将軍後見職の一橋慶喜と相談したところ、(やはり容保が守護職を請ける以外になく)、春嶽が直々に説得にあたることになったそうです。春嶽は下城後、会津藩和田倉屋敷へ出向き、容保と面会して説得しました。このとき、家老横山主税と用人堀七太夫が同席しました。その結果、会津藩は、明日、請書を提出することになったそうです。(「再夢紀事」)

『七年史』によれば、春嶽が容保説得に訪れた日(『七年史』では7日とされている)の朝、春嶽は、体調不良で静養中の容保に守護職就任を促す次のような書簡を送りました。書簡のポイントは以下の通り。
御静養の上、一日も早く御登城願いたい。
家老横山主税を呼び出して申し聞かせた件は、いかがお聞き取り下さっただろうか。特に、「方今京師の様子、不穏に相聞」え、刑部殿(=後見職一橋慶喜)を始め、「一同深く憂痛至極」である。「京師御手薄にては、何分難相成、是非々々御請不被成候ては、公武御合体に至り兼可申」と存じる。
一旦御請けにさえなれば、「其上の御内願筋等」は、及ばずながら小生が尽力して、「是非御都合相成候様」、取計らいたい。
今日も(将軍から)召されて、(この件の)御尋ねがあり、「上にも殊の外御心配」である。
「早々御出勤」の上、「一旦御請」になれば、大原(=勅使大原重徳)への申訳けも立つし、「第一尊奉筋に取り、最上の御都合」である。「機会不可失、速に御英断」下さるよう願っている。「御国許の御都合」もあるだろうが、それまで待っていれば、「御請遅引」につながり、「上の御尊奉筋に関係致し、不容易儀」である。そこを察して、早々に主税(=家老横山主税)らと相談し、御返答をいただきたい。
(以下、後書き)
「土津公以来の家柄と申、当今の艱難を御亮察被下、只今御受に相成候へば、将軍家被為重、京師の御信義も相立、私共に於て、難有奉存候、激切の義申上候は、甚恐入候へ共、公方様が、御いたはしく、姑息の様に候得共、御心配の御様子見上候へは、落涙の外無之奉存候、臺徳院殿の御血脈の公方様、土津公御末胤の貴兄に候へは、御情に於ても、御同情と奉存候、徳川氏へ信義相立、公武合体の有無は、貴兄の御受断不断にあり、小生泣て申上候も、方今臺徳院様、土津公被為存候はは、必ず御受に相成可申と奉存候、未世に候へ共、御同情と奉存候」

また、春嶽が、会津藩邸を訪問する前に送った書簡のポイントは以下の通り。
今朝申し上げた件(=上記書簡の件)は如何お聞き取り下さっただろうか。「何分関心の次第」、日々京師の事については、一同「焦慮」しており、(将軍も)「段々の御尋」もあって「御受御待兼被遊候御様子」でおられるので、今日、(江戸城)退出後、(会津藩邸に)登館し、御病床へ罷出て、直接交渉するつもりである。
(注:管理人は素人なので、資料として使わないでね)

<経緯>
文久2年7月28日、春嶽は、会津藩に、京都守護職の内命を伝えましたが(こちら)、会津藩は、翌日、これを固辞しました(こちら)。8月2日には、会津藩士野村左兵衛が越前藩士中根雪江(春嶽側近)らを招いて懇談し(こちら)、6日は、中根が会津藩家老横山主税を訪ねて守護職就任を説いていました(こちら)

参考:再夢紀事・丁卯日記』・『七年史』一(2002.9.25)
関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「容保の守護職就任」「所司代人事」■守護職日誌文久2

◆8/7へ  次へ


9月の幕末 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ