衛士覚書トップ  トップ

前へ 次へ

*追記(2005.9.30) この件に関して、市居浩一氏・松浦玲氏が連名の公開状を出されました。
当該書簡は(1)伊東のものではなく、(2)岩倉具視宛香川敬三書簡である、というご意見です。
両氏の許可を得て公開状全文をUPしていますので是非ご一読ください。こちら

14. 「新発見伊東甲子太郎直筆」書簡(『龍馬と新選組』収録)に異論あり(1)
2004年9月に公刊された菅宗次氏『龍馬と新選組』(講談社メチエ)には、新発見の「大原重徳宛(推定)伊東甲子太郎書簡」とされる書簡が収録されています(以下、収録書簡)。これに先だつ新聞発表によれば、伊東書簡とされる根拠は、「武明」という署名があること、故郷の母こよ宛伊東・三樹三郎連名書簡と筆跡が同じだと菅氏が判断したこと、だそうです。

BOX1:収録書簡の概容(管理人による翻刻文・書き下し文・コメントは準備中)
差出人:宛名書に「彦次」、文末に「武明」と署名。
宛先:「北山御殿様」
書かれた時期:(慶応3年)2月26日(収録書簡に年は記されていないが、将軍とフランス人が大坂城で会見したという記述から慶応3年と推定できる)
内容:江戸から上京した者の情報として徳川慶喜が自分の写真に添えてカラフトを送与したこと、クナシリ、エトロフは既に外国に奪われたと報告し、このままでは北方領土が蚕食されると注意喚起している。さらに、将軍の城中外国人謁見に対する安政期と慶応期の人びとの反応の差を引き合いに出して、警戒心や攘夷の意識を薄れたことを歎いている。「大有為の君」が明断をもって国体を維持せねば皇国が塵と化すだろうとの憂慮を示し、「北山御殿様」に対し、かねての定見通りの明断を求めている。徳川慶喜を「源慶喜」と呼び捨てにしていることも特徴的。

この書簡の第一印象は、「え?この時期の伊東がこんな内容のことを書くんだろうか」というものでした。新発見で従来の知見を訂正せねばならぬとは思いながらも、違和感を抱えてすっきりしない気分のまま、収録書簡を二読・三読し、資料を調べ、お世話になっている方々のご意見をうかがい、考察を重ねていくうちに、(1)収録書簡は伊東のものではない、(2)香川敬三(鯉沼伊織・小林彦次郎)の書簡である可能性が高いのではないかと考えるにいたりました。また、書簡の宛先は、大原重徳ではなく岩倉具視ではないかと推測しています。

(1)伊東の書簡ではないと考える理由
  1. 収録書簡は京都(近辺)で書かれたと推定されるが、伊東は当時九州にいる:収録書簡中に「江府より上京之者有之候間関東の形勢承り候所(江戸から京都にやってきた者があり、その者から関東の形勢を聞いたところ)」とあり、上京してきた者から聞いた関東の情勢を伝えることが主要用件の一つになっている。このことから差出人は京都(周辺)にいることが推定できる。また、大坂城における慶喜とフランス人(ロッシュ)の会見及び人びとの反応が伝聞調ではなく断定的に記されていることから、差出人は両者の会見(慶応3年26〜7日)頃、大坂(周辺)の情勢を直接見聞できる場所にいたことが推察できる*注1。一方、伊東は、「九州行道中記」によれば、慶応3118日に京都を発って九州に向かっており、帰坂は同年3月11日、帰京は翌12日。慶喜とロッシュの会見時(2月6〜7日)は三池におり、書簡の書かれた日(226日)は長崎に滞在している。
  2. 収録書簡は旅先の長崎からの書簡としては不自然である:収録書簡には旅先(または長崎)で書かれたことを示唆する文言が一切みあたらないし、旅先からならではの情報(たとえば長崎で見聞きしたこと、大宰府の激派公卿らの動静など)も報告されていない。逆に上京した者からの伝聞・大坂近辺の情勢が報告されている。諸国遊説中の志士が旅先の長崎から「北山御殿様」に送る書簡としては極めて不自然である*注2。
  3. 差出人と「北山御殿様」の物理的距離は近いと考えられるが、長崎に「北山御殿様」がいるとは考えにくい:収録書簡の冒頭には「春夜濛朦月不明嘸々御欝悶ニ不被為堪御義と奉恐察候<春の夜に濛々と霧が立ちこめて月がはっきりせず、さぞ御憂悶に堪えられないことと恐れながらお察しいたします>」とある*注3。差出人である彦次/武明と「北山御殿様」は同じ天候下にあることがうかがえ、書簡が書かれた日の両者の物理的距離はそう遠くないといえよう。また、文末で、わざわざ「愚言且以書中言上仕候義は甚タ恐入<つまらない意見をしかも手紙で申し上げることは非常に恐縮>」と断っていることからは、(1)彦次/武明と「北山御殿様」は本来なら会って話をするような近しい関係であり、(2)書簡が書かれた日、両者は会うことが可能な位置にあった、のではないかと推測される。さらに「北山御殿様」の「兼ての御定見」が言及されていることからは、両者が昨日今日の知り合いでないことも想像できる。書簡日付の2月26日、伊東は長崎にいるが、到着翌日で、しかも長崎訪問は初めてである。懇意にしている攘夷派の「御殿様」が長崎(近辺)にいるとは考えにくく、この点からも収録書簡の差出人が伊東だとは考えにくい。
  4. 「武明」と署名をする志士は他にも存在する:収録書簡の文末には、確かに伊東のいみなでもある「武明」と署名されている。しかし「伊東武明」と署名されているならともかく、「武明」と署名する志士は他にも存在するので、「武明」という署名だけで差出人を伊東甲子太郎だと断定することはできない。断定するには伊東が「彦次」にあたる変名を使っていたという裏づけ史料も必要だろう。
  5. 収録書簡と伊東和歌書付の「武明」という署名の筆跡が違う:残存する伊東の筆跡としては、慶応3年3〜11月に書かれたと推定される九州行道中記(部分写真)及び和歌書付(全部写真)がある。収録書簡の「武明」の筆跡(画像1)は、九州行道中和歌書付の「武明」の筆跡(画像2)とは明らかに違う。収録書簡本文中の筆跡も、一見して、和歌書付(写真)や九州行道中記の筆跡と違う(←準備中)。
  6. その他:書簡コーナーからリンクされている疑問点(こちら)の「個人的にすっきりしない点」を参照。(のちほど、異論(2)に整理したいと考えています)。
(2)香川敬三の書簡である可能性が高いのではないかと考える理由
  1. 香川は「彦次」と「武明」の署名者として不都合がない:香川は慶応3年頃には小林「彦次」郎という変名を使っていたことは知られているが、慶応3年8月付け鷲尾侍従同志連判状「有渝新盟」には鯉沼伊織「武明」と署名が残っている。*この項は、『高台寺党の人びと』著者・市居浩一氏のご教示によります。
  2. 「武明」の筆跡が似ている:上記「有渝新盟」における香川(鯉沼)の花押の「武明」の筆跡は収録書簡の「武明」という署名の筆跡とよく似ている(画像3)。(筆跡をさらに比べるために、香川敬三の慶応3年頃の書簡を探しています⇒ブログ参照)
  3. 北山御殿様との関係:当時、香川は北山に幽居していた岩倉具視のところに頻繁に出入りしており、「北山御殿様」=岩倉だと考えると、この点でも符号があう。
  4. 書簡の内容も、香川が岩倉に宛てたものと考えて差し支えなく思われる。(この辺は「異論(2)か(3)」で)。
写真:収録書簡差出人、伊東甲子太郎、及び香川敬三の署名「武明」の比較
画像1
収録書簡差出人の署名
画像2 
伊東甲子太郎の署名
画像3
香川敬三の署名(花押)
出所:『龍馬と新選組』収録書簡より 出所:「伯父伊東甲子太郎武明」(私家版)所収の九州道中和歌書付より 出所:慶応3年8月付鷲尾侍従同志連判状「有渝新盟」(市居浩一氏提供資料)より

*注1〜3:お世話になっている方からご指摘をいただきました。
*注3の翻刻については『龍馬と新選組』では「春夜朦朧月不明嘸御欝ニ不為堪御義奉恐由仕候」と翻刻されている(ピンク部分は、管理人による翻刻と違う部分)。どう読み下すのかは不明。同書では「春のおぼろのなかには月は明らかならず、うつうつとしているこの状態にたえることができず申しあげることでございます」と訳されており、憂鬱なのは差出人だと解釈されているが、「御鬱悶」「御義」とあり、憂鬱なのは宛名の「北山御殿様」の方であることは明らかである。
作成:2005.1.25 微修正 1.26, 1.29,2.12, 2.15

みなさんはどう思われるでしょうか?この件専用の掲示板を作成しようかと考えています。そのときはHPトップでお知らせしますので、是非ご意見を聞かせてくださいませ。

注:収録書簡については、当初、書簡コーナーにおいて、伊東書簡とするには「疑問あり」と注記し、疑問点や謎を思いつくままに並べていました(こちら)。上の文章はそのときに書いたものと一部重なっています。
なお、『龍馬と新選組』で三樹三郎作とされている七言絶句は(芳野)桜陰作で、詞書が原本と違いますこちら。「残しおく言の葉草」中、伊東が女性を詠んだと解説されている和歌(25首)の少なくとも17首は女性自身の歌、原本にないとされる4首は背表紙にあります。抜けている詞書もあります。こちら 買われた方はご注意を。

前へ  次へ

衛士覚書トップ

著作物作成の情報収集に来られた方へこのサイトのページの内容は管理人ヒロの私見です。うのみにして著作物作成に利用することはお勧めしません。参考文献をご自分でそれらを調べ、ご自分で解釈されることを強くお勧めします。また、盗用も絶対にやめてください。情報に勘違い・誤解・誤植などがあった場合、あなたにも読み手にも迷惑をかけることになり、その責任まではとれないからです。もし、サイトの情報をそのまま利用される場合は、あくまでの管理人の私見であることをご了解の上、自己責任でお願いします。その際にはこのサイトが出典であることを明記してください。(詳しくはこちら