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13. 浪士組と水戸藩(1)清河八郎と水戸藩尊攘激派
文久3年2月23日、「尽忠報国」の「一方の御固め」のために募集された浪士組(こちら)が入京し、壬生に分宿しました(こちら)。浪士組はのちの新選組の母体となった組織ですが、管理人は、浪士組結成には、清河八郎と水戸藩尊攘激派(尊攘改革派のうち、戊午の密勅返納反対派)との連携があったのではないかと考えています。まだまだ、史資料が不足していて、検証というレベルではないのですが、とりあえず、なぜ、そう考えるようになったのかをメモ代わりに整理しておこうと思います。(この仮説は、清河八郎は、果して浪士組による討幕挙兵を念頭に置いていたのだろうか・・・という疑問につながっています)。


1)横浜攘夷から大赦運動へのシフトと水戸藩激派

清河と水戸藩激派との密接な関係は、文久2年の寺田屋事件で京都挙兵計画が失敗した後に始まるといって良いだろう。京都挙兵に失敗した清河が次に考えたことは水戸浪士を引き出して横浜攘夷を実現することだったのである(こちら)。清河は、8月24日に江戸に着き、山岡鉄舟・松岡万ら虎尾の会同志と会うと、27日には江戸を出立。閏8月9日に水戸に入ると、11日に激派の中心人物住谷寅之助を訪れ、翌12日には住谷・下野隼次郎・山口徳之進・宮本辰之助と会い、寺田屋事件・京阪の事情を説き、尊攘について語っている。清河は水戸に12日間滞在し、21日に出立したが、そのときには、(当座の計画としては)横浜攘夷を捨て、大赦運動を推進することを決めていた。住谷らと決裂したのではない。その証拠に、翌22日、清河は、政事総裁職松平春嶽宛の大赦の上書を住谷に託し、江戸の山岡鉄舟・間崎哲馬に渡すよう依頼している。横浜攘夷から大赦運動への方向転換は住谷ら水戸藩尊攘激派との話し合いの結果だろう。攘夷を行うためには、まず獄中にある同志の赦免が必要であるとの認識で一致したのだと思う。大赦の対象としては、清河自身と虎尾の会同志だけでなく、獄中にある水戸藩激派も念頭にあったはずである。

2)清河と「水府有志」の「尊攘の大義の会合」

清河は水戸を出た後、仙台を周り、10月11日には水戸に戻ってきた。水戸は、いわば清河の彼の活動拠点となっていたようである。11月1日付故郷の父親に宛てた書簡では、水戸藩有志非常に世話になっていること、自分が近日中に赦免される見込みであること、近く「合戦」になるので覚悟してほしいこと、「水府有志の先生方」と明2日に江戸に向う予定であることを告げており、(「拙者事水府に於て殊の外珍重され、存分冥加に御座候。・・・(中略)いつれ近日中御免相成、改善帰郷仕るべく候。天下の勢は遠からず合戦に相成り候間、その御覚悟にて然るべし。明日、水府有志の先生方とともに出府の積也」)、住谷寅之助父子・金子勇次郎・山口徳之進・下野隼次郎らと「尊攘の大義の会議」をもっていたことなども記している。なお、書簡中の「合戦」は、討幕挙兵ではなく、元々の計画である横浜攘夷戦争を意味するのだと思う(水戸藩士が討幕挙兵に賛同する可能性はまずないので)。

水戸藩激派とともに江戸へ出た清河が何をしていたのかは不明だが、「尊攘の大義」に関して山岡・間崎らと連絡を取り合っていたことはは容易に想像できると思う。その後、清河は再び水戸に潜伏。次に清河が水戸を出たのは、12月11日。浪士取扱に任命された松平主税助の招請に応じての出立であった。

3)浪士組結成と「水府有志」

このように、文久2年10月初旬〜12月初旬、清河は水戸に潜伏していたか「水府有志」(激派)と江戸に出ていたが、この時期は、ちょうど浪士組結成運動のピークと一致する(下表参照)。この間、清河の潜伏を助け、清河と頻繁に会っていた住谷ら水戸藩激派は、浪士組結成の目的や運動の状況を把握していただろうし、支持もしていたと考えてよいのではないだろうか。(ひょっとすると浪士組結成の発案自体にも関っていたかもしれない)。

表:文久2年の清河と浪士組結成の動き
10/11:【水】清河、水戸に戻る
10/17:【江】講武所剣術教授方松平主税介・浪士懐柔策を建策。(山岡鉄舟の入説によるという)
10/19:【水】田原彦次郎、清河宛に「此の先深く御依頼申し候」と認める
11/2:?【水】清河、水戸藩激派とともにと江戸に向う
11/12:【?】清河、政事総裁職松平春嶽への上書(「攘夷」「人材登用」「大赦」の三事策)を提出。

12/8:【江】前土佐藩主山内容堂の発言により、松平春嶽、浪士募集を決定(間崎哲馬が容堂に入説したという)
12/9:【江】老中板倉勝静、松平主税助に浪士取扱を命じる。
12/11:【水】主税助の招請で、清河、水戸出立。
10/16:【江】水戸藩、薩摩藩邸駆け込みの27人(粕谷新吾郎含む)を藩地に送還しようとする。極刑を恐れた一橋慶喜、藩主慶篤に書簡を送って阻止。


11/22:【江】水戸藩、激派の武田耕雲斎らを執政に復帰させる。
11/25:【江】幕府、水戸藩に27人の赦免を命じる
11/28:【江】幕府、朝旨を奉じて大赦。
12/8:【京】水戸藩主徳川慶篤に上京の沙汰(住谷の依頼で長州藩桂小五郎らが周旋した結果)
参考:『清河八郎遺著』・『清河八郎』・『水戸藩史料』

清河の潜伏を助けていた住谷ら水戸藩激派が浪士組結成を支持していたとすれば、清河との共通目的「尊攘の大義」の実現のためだったはずである。それは叶えられたのだろうか。

浪士組は上洛する将軍徳川家茂の警衛のために組織されたと書かれているフィクションや解説本があるようだ。しかし、実際の浪士募集の達文をみると、その目的は「尽忠報国」の有志による「一方の御固め」なのである。この時代、「国」という言葉は、藩(幕臣にとっては徳川家)と、日本国(「皇国」という言葉をよくみかける)の二通りの意味で使われるが、浪士組の場合は明らかに日本国(「皇国」)の方である。「一方のお固め」とは日本全体の守衛の一角を意味し、外国の脅威からの守衛、すなわち「攘夷」を意味すると考えてよいと思う(→「文久3年1月7日、幕府、「尽忠報国」浪士の募集を命ずる」)。だとすれば、浪士組は「尊攘の大義」の実現を目的にする浪士集団だといってよく、水戸藩激派も清河を支持したかいがあったというものだろう。現に、住谷の弟宮本は、水戸で会った草野剛三を浪士組に勧誘しているし、大赦によって獄を出てきた水戸藩激派の中には浪士組に参加した者もいる。芹沢鴨らと粕谷新五郎である。

⇒その2に続く(浪士組募集〜上京時の水戸藩との関係を整理する予定です。浪士組内水戸藩激派芹沢鴨・粕谷新五郎をフィーチャーします)

関連:■清河/浪士組日誌文久2清河/浪士組日誌文久3「いろはに幕末水戸藩」「水戸藩かけあし事件簿」@幕末館 (2004.6.10,6.11)

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