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文久2年6月1日(1862.6.27)
【江】幕府、将軍家茂の近日上洛を布告
【京】清河八郎、退京途上伏見の薩摩屋敷で陳弁
藩士某から活動資金200両を贈られる。

■将軍上洛問題
【江】文久2年6月1日、幕府は将軍家茂の近日上洛を布告しました。

<ヒロ>
将軍上洛は、勅使が幕府に要求する三事(1。将軍上洛、2. 雄藩から成る五大老の新設、3.一橋慶喜の後見職・春嶽の大老就任)の第一事にあたります(こちら)。勅使到着前の布告は、先手をうったものと考えてよいと思います。

実は、老中らが松平春嶽の将軍上洛の主張に同意したのが5月24日。三事策が江戸に伝わったのも同じ日だったようです。両者のタイミングはよくわからないのですが、もしかしたら、老中が三事策を知ったことが、春嶽の主張への同意に影響していたのかもしれないと思います。

なお、上洛の時期を明確にしなかったのは春嶽の助言を容れたものでした(こちら)

関連:■テーマ別文久2「将軍徳川家茂上洛問題」背景はこちら
参考>『再夢紀事・丁卯日記』・『徳川慶喜公伝2』(2003.7.4)

■清河八郎
【京】文久2年6月1日、清河八郎は退京途中に伏見の薩摩藩邸に立ち寄りました

清河の画策した京都挙兵は寺田屋事件で失敗しました。5月初旬、再起を考える清河は藤本鉄石・安積五郎と大坂の薩摩藩邸を訪ねましたが、よい反応は得られませんでした(「潜中紀略」)。関西は無理だと判断した清河は東下することにし、その途中、伏見の薩摩藩邸に立ち寄りました。そこには、京都挙兵計画に参加した岡藩士小河一敏(おごう・かずとし)・赤坐弥太郎ら20余名が、東下した島津久光の帰京を待って、滞留していました。小河は最初、青蓮院宮の命を偽り、彼らをだました清河に冷笑を浴びせました。しかし、清河の陳弁に納得し、酒を酌み交わしたそうです。

清河はそれから大黒寺に立ち寄り、寺田屋事件で亡くなった九士の墓参をし、舟で大坂に下りました。真木和泉(保臣)の留守宅を訪ねたのですが、留守を預かる者が江戸の医学生酒井伝二であり、強いて会わずに伏見に戻りました。

伏見に戻った清河は、赤坐から、小河が清河の東下前に今一度と談じるために長い間待っていたが京都に出掛けたと聞き、京都に向いました。京都の柳店下で小河と会って長時間話し合った後、東下に際して「更に謀る所」(「潜中紀事」)があり、薩摩藩士某等(名前不明)に会って別れを告げました。

<ヒロ>
清河は東下と決まって、薩摩藩その他の同志から約200両の活動資金を贈られた(文久2年9月10日清河八郎書簡)としていますが、それがこのときだったようです。

寺田屋事件で清河は在京志士から総すかんを食らったとよく言われる気がするのですが、実際は、違うようです。それにしても、活動資金として200両という大金が渡した薩摩藩士某はいったい誰なのでしょうか・・・。こんなまとまったお金が出せるのはかなりの大物だと思うのですが・・・。

さて、この薩摩藩士との計画はどのようなもだったのか・・・「水戸の浪士を引出し、横浜を攘い候て早速事に及び申すべし」(文久2年9月21日付清河八郎書簡)というものだったようです。

・・・となると、桂小五郎に面会を求めたのは、成破盟約(水長盟約)の長州側当事者だったからなのかも。

関連■「今日」◇文久2年5月28日-清河八郎、薩長藩士を激励するため、書を浦靱負に。 ◇5月29日−清河、桂小五郎の面会を求める
清河/浪士組年表 文久2年@衛士館

また、掲示板(居酒屋:歴史会議室)に清河八郎と桂小五郎関連スレッド(進行中)があります。情報・ご意見お待ちしてます^^。

***
■おまけ:
清河の陳弁の仮書き下しbyヒロ
「匹夫天下の為に大義を企つ。何ぞ必ずしも縄を趨(ハシ)り規を歩まん。いやしくも事義に適い、行い身に私無くば、何為(ナンス)れぞ其の由り起る所を極めん哉。事固より一道に論ずるべからず。此の謀をして悉く之を成さしむ。孰(イヅ)れ敢て言辞を容る。其半途にて毀に及ぶ。因りて其の跡を責む。何ぞ其れ之を見るに遅なる也。成れば則ち譎(イツワリ)を正と為し、敗るれば正を譎と為す。人情は自ずと然り。何ぞ今に始むる也。然れども、既に此の勢に至り、天下をして面目を改めしむ。未だ必ずしも我が党の感奮に由らずんばあらず」(出典:「潜中紀事」『清河八郎遺著』←歴史的仮名づかい等、あまり自信がないので絶対に引用しないでくださいね^^;)。

<ヒロ>
う〜ん・・・清河、なんつぅ自信・自負。目的のためには手段は選ばず、勝てば官軍・・・ですね。わたしは個人的には、こういう考え、ついていけないのですが、小河が酒を酌み交わしてしまうあたり、清河の弁舌も迫力あったのだろうし、この時代の志士を名乗る人たちには当たり前の考え方だったんでしょうか。

<参考>『清河八郎遺著』(2003.7.4)

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