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文久3年2月23日(1863.4.10)
【京】生麦償金(5)在京老中、返答期限延期交渉を指示
【京】浪士組上京(2)浪士組入京。清河八郎、朝廷への建白書提出を提案。

■生麦事件償金問題
【京】文久3年2月23日、将軍とともに上京中の老中は、生麦事件に関する英国の要求に対して、返答期限延期を交渉するよう指示しました

英国は同月19日、幕府に対して謝罪と償金支払いを要求しました(こちら)。将軍は13日に江戸を発っていたため(こちら)、留守老中は外国奉行竹本正雅(甲斐守)に行列を追わせて、指示を請わせました。この日、竹本に応対した老中(板倉勝静と水野忠精?)は、将軍が上洛して後見職・総裁職と協議をするので、それまで返答期限を延ばすように交渉せよと指示しました。

<ヒロ>
う〜ん・・・お得意の「ぶらかし」というか・・・問題の先送り?

参考:『続再夢紀事』一p386-387(2004.4.10)
関連:■ 開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別「生麦事件償金問題
■親兵設置問題
【京】文久3年2月23日、朝廷は、親兵設置につき、左右大臣以下議奏・伝奏・参政・寄人らに意見を出させました。(同時に神宮警衛も)

朝議を支配している急進派の国事寄人の意見は、親兵は諸藩から石高に応じて出させること、公卿が統帥すべきこと、御所内に宿舎を設けて日々鍛錬させること、草莽のうち有為な者も召し出ささせること、親兵は御所の守衛を職掌とし、その他の警衛は従来通り諸藩が行うこと、親兵の手当・食料・武備は諸藩に賦課すること、との意見でした。

親兵は是非設置せねばならない。幕府には旗本がおり、幕府が朝廷の親兵に反対するなら、旗本も廃絶すべきである。
親兵は、外様譜代の区別なく、たとえば大藩は五人、小藩は一人、その他はこれに準じるという割当で「武勇卓絶忠誠ノ士」を出させる。彼らを真実、「朝廷ノ御旗本」とし、十隊あるいは二十隊に編成して隊長を置き、その統括には公卿(「紳○ノ輩」)から人材を選ぶ。
九門内の空き地(御花畑等)に長屋を建てて親兵を平常から起居させ、非常の際にはそこから内裏に駆けつけさせる。その際、親兵は隊長の下知に従い、隊長は統括の公卿の下知に従う。烏合の衆とならぬよう、毎月三度ほど集団調練を行い、隔月くらいには演武場で試合を催し、折々に天覧を得る。平時、小規模な調練は長屋の傍の空き地で行う。銃・弓馬等を日々鍛錬し、公卿その他希望者へ稽古をつけさせる。
藩士だけでなく、草莽のうち「御用二相立」つ者は召出させる。
親兵の「職掌」は「鳳(=御所)ヲ守衛仕候事専務」であり、その他の警衛はこれまで通り諸藩に命じる。
親兵の食糧は万石以上の藩士に千石に一石の割合で賦課し、武器は藩の大小に関わらず献納させる。
(参考:「久邇宮国事文書寫」『孝明天皇紀』より作成)

<ヒロ>
後見職一橋慶喜が、親兵は守護職の指揮下、畿内諸大名に勤めさせたいと上言していました(こちら)。おそらく、これを受けて、朝廷側は意見を固めようとしたのではないかと思います。慶喜は朝命が出る前に機先を制したつもりだったかもしれませんが・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』2p195-197、『孝明天皇紀』巻153p1-p10(2012.12.27)
関連:■開国開城:「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」■テーマ別文久3年:「親兵設置問題

■浪士組入京
【京】文久3年2月23日、「尽忠報国」の「一方の御固め」のために募集された浪士組(こちら)が入京し、壬生に分宿しました(『廻状留』)。分宿先は更寉寺、新徳禅寺、村会所、南部亀次郎邸、中村小藤太邸、四出井友太郎邸、八木源之丞邸、百姓玖太郎邸、浜崎新三郎邸、柳恕軒邸、百姓新三郎邸の11軒です。

新徳寺表玄関◆清河八郎の演説

この夜、清河八郎が主だった浪士を新徳寺に呼び出し、朝廷への建白について演説し、了解をとりつけたといいます。(俣野時中談『史談会速記録)




<ヒロ>
◆浪士組/新選組よくある誤解?
『清河八郎』(小山松勝一郎著)によれば、清河が建白書を提出することを決意したのは入京前日の2月22日。大津にて攘夷の勅諚が下され、また、草莽による朝廷への建言へルートが開かれた(言路洞開)ことを知って、草稿を書き上げたとそうです(こちら:出典不明。『清河八郎遺著』には載っていないのですが、未公開書簡か何かがあるのでしょうか?)。

さて、フィクションなどでは、よく、清河が浪士組全員を呼び出して討幕(=武力倒幕)の演説をし、それに芹沢鴨・近藤勇ら試衛館一派が反発したという風に描かれますが、ちょっと史実とは違うようです。まず、新徳寺には浪士組全員が呼び出されたのではありませんでした。芹沢・近藤あたりは呼び出されたかもしれませんが、演説を受けて建言書は提出されているので、この日の演説に反対したというわけでもなさそうです。その演説の内容ですが、翌4月11日に提出された建言書を見る限り、必ずしも討幕を呼びかける内容というわけではなかったようです。(確かに微妙な書きぶりで、深読みすれば、討幕の決意も含んでいるようにもとれますが)。

関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)
参考>『清河八郎』、『史談会速記録』(2000/4/10、2003/4/23)

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