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慶応3年(1)1〜5月★数え33歳 |
伊東のできごと | 幕末のできごと | |||||||||||
1 月 |
1/1伊東・永倉・斎藤ら隊規違反で島原に流連?(疑問あり) |
1.2-泉湧寺に御陵を設営する布達 1.9-明治天皇即位 1.12−中川宮、辞表再提出 1.15−征長軍解兵決議。慶喜、朝廷への征長解兵奏請使者として容保・定敬を任命 1.17-容保、評議の上、断る。 1.22-西郷、四藩会議の実現のため、藩主父子らの上京を促すために京都出立 1.26-中川宮、国事掛の再辞表 1.29−孝明天皇を泉涌寺の御陵へ埋葬 |
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1/4近藤の使いにともなわれて帰営。伊東、謹慎という。 | ||||||||||||
1/18 伊東・新井・三樹ら島原木津屋で酒宴の後、伏見寺田屋へ。寺田某と合流その後、九州に向かうため、舟で淀川を下る。 ★新選組は尊王の集まりだと思って入ったが、近藤は幕臣となって幕府につくすつもりであった。また、自分の意に添わないもの、反対する者は密殺する傾向があり、危険だった。王事に尽くすために分離したいがなかなか容易ではなかった。そこで、伊東は新井を連れて、九州に行って、分離策を立てた。(阿部隆明談『史談会速記録』90) 1/19 朝、大阪の京屋へ。三樹と別れて伊東・新井、兵庫へ。湊川に寄って兵庫泊。大目付永井尚志に出会って雑談する。 1/20→蒸気船に乗り込み、出航。 1/22 伊東・新井・寺田、佐賀関港到着。小船で鶴崎に向かうが引き潮。途中から陸路鶴崎へ。夜、永井が鶴崎に。 1/23 伊東・新井・寺田、鶴崎から肥後路に向かう(永井は日田へ)。宇津原で昼食。今市に宿泊。黒峠という難所を越える。 1/27 伊東・新井・寺田、昼に南関。伊東、慶応2年「長州征伐」における小倉・長州の闘いで肥後に避難した老少婦人の窮状を見て落涙。三池の尊王家清水(塚本源吾)宅に宿泊。 1/28 阿部、下川、渕上(郁太郎)が来会。 1/29 伊東、清水と大宰府へ。新井は肥後人応接、寺田は西肥後周旋の予定。 |
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2 月 |
2/2 伊東、大宰府到着。天神参詣。真木外記・水野渓雲斎と面会。薩摩の吉田清左衛門宅に宿泊。 2/3 清水、真木に面会。永井の話をしたところ、大いに嫌疑を受けて恐怖して帰る。伊東、真木を再度訪問し、実を吐露するが、謀殺の気配を感じる。伊東、長州から来た使節とも応接。 2/4 伊東、真木・水野らと再度面会。新選組とは異論があって分離するとの説き、嫌疑を解く。再会を約して分かれる。長州から来た使節とも応接。 2/5 伊東、大宰府出立。久留米城下に一泊。 2/6 伊東、三池で新井・寺田と合流。渕上が(幕府の間者ではないかとの?)嫌疑を受けて肥後での周旋成立せず。 2/9 伊東・新井・寺田、夜に肥後領ついたて(杖立?)に行く。大河内に面会し、長州の情勢を尋ねるが詳細は得られず。伊東、寺田の言行不一致に愛想をつかして和歌を2首詠む。 2/13 伊東・新井・寺田、添田(hp)に着く。小倉の人と面談。古戦場を訪ねて歌を詠む。 2/16 伊東・新井・寺田、日田(hp)で大いに嫌疑を受ける。伊東、悔しい心情を詠む。 2/17 新井・寺田、出立。伊東は日田代官窪田冶部右衛門に面会。嫌疑を受ける。 2/18- 2/19 伊東、嫌疑を受けて日田に足止め。 2/20 同上。内海多次郎により嫌疑が氷解。 2/21 日田を出立。久留米府中宿泊。 2/22 伊東、佐賀着(hp)。新井に合流。友との再会に感激して一首詠む。 2/23 塚崎泊。武雄温泉(hp)に。新井、病が篤くなる。 2/25 長崎着(以後、3/4まで10日間長崎に滞在した模様) 2/26 長崎奉行能瀬大隈守(頼文)訪問。新井、医師・郡斎の診察を受ける。同日、「北山御殿」宛書簡を認めるともいうが書簡が伊東のものかどうか疑問あり。 2/29 大隈守より300両受け取る。←長崎奉行からなぜ???(探求中) 2/30 新井(と?)、両鎮台訪問。 九州遊説中の詳細な動きは→伊東の九州行道中記 |
2.1‐西郷、鹿児島到着。その後、藩主父子の上京を説得。次に四国に赴き、容堂・宗城にも上京を入説。 2.6−2.7 慶喜、仏公使ロッシュと会見。ロッシュ、六局構想(内閣制)を説く。また、郡県制を説いたとも。 2.12-容保、守護職辞表を提出するが容れられず 2.13- 中川宮再出仕 2.14-会津藩、余九麿を京都に留め、容保の辞職東帰させることを願い出る 2.27‐西郷、周旋を終えて帰国。 2.30-旗本の永井尚志、大目付兼外国奉行から若年寄格に。(幕府の人材登用) |
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3 月 |
3/1-3 同上 3/4伊東・新井、京都に向って長崎を出立。(「九」) |
3.5-老中板倉、会津藩に余九磨入京後数ヶ月後に暫時の暇を与える内意を示す。慶喜、兵庫開港勅許を要請(公議なし)。 3.11‐容保登城再開 3.12‐余九磨入京 3.19-朝廷、兵庫開港要請を却下 3.20‐容保、病で登城停止 3.22-慶喜、開港要請の上書 3.23‐慶喜下坂 3.25-28‐慶喜、四国代表を謁見。条約履行(開港)を確約 3.25-久光、7千の兵を率いて鹿児島出立(西郷も) 3.29-朝廷、開港要請を却下 |
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■御陵衛士の拝命・新選組から離脱 慶応2年末、新選組総員の幕臣取立てに関する内命があった。伊東らは、尊王の志を貫くために新選組から離脱することを決意。伊東・新井が九州遊説中、篠原らが孝明天皇の御陵の造営される泉涌寺の塔頭戒光寺の長老・堪然と会合し、彼に口添えをしてもらい御陵衛士を拝命したという(秦」)。近藤・土方と話し合い、町奉行・京都守護職公用人の了承も得た上での分離である。 <ヒロ>御陵衛士は形式上は幕府山陵奉行の配下にある。しかし、山陵奉行戸田忠至(大和守)は朝廷から任命されており、ほんの少しだが給与を下賜されていて、いってみれば朝臣でもある。朝幕双方に深い関りをもつ山陵奉行配下となることは、一和同心という伊東の基本方針とも合致しているといえる。また、戸田忠至は会津藩の長沼流軍学を学び、かつ昔から戸田家と会津松平家とは親密な関係だった。このことも衛士拝命を後押ししたのではと思う↓
ただし、同志が全員同時には分離できなかった。 ★佐野七五三之助・茨木司ら10名は御陵衛士分離が決まったときは不在で、一緒に分離できなかった。(西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』) ★分離のときに、佐野・茨木ら同志を探索のために残しておいた。(「秦林親日記」) ★佐野・茨木ら4名の同志は、このとき、近藤の反対で一緒に分離することができなかった。伊東は、幕臣取立てが決定したら、公然と議論をして分離するようにと言い含めて彼らを残していった。(阿部談『史談会速記録』90) このことが、約3ヶ月後の佐野らの横死を招く結果となる。 |
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4 月 |
新選組脱走隊士田中寅三切腹(伊東らに接触したとする解説本もあるが根拠はない) | 4.3-将軍慶喜帰京 4.5-会津藩、二条摂政に東帰許可を要請 4.8−容保、帰国を幕府に請う 4.12−久光・西郷、率兵入京。 4.14−高杉晋作病死。 4.15−パークス伏見街道通行を所司代許可。 4.17−四卿解職 4.19−新選組山崎、中山忠能訪問 4.23−朝廷、容保を参議に推任(容保、帰国をあきらめる)。.いろは丸沈没 |
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5 月 |
この頃、毛内監物、孝明天皇の遺志を尊重し、兵庫開港の勅許を出さないようにとの建白書を起草。(建白書が「青雲志録」に収録されている) <ヒロ> 御陵衛士としては孝明天皇の遺志というのは何を置いても優先されねばならないことなのかもしれない。ただ、伊東が共著かどうか、また実際に提出されたものかどうかは不明。 |
5.1−容堂入京 5.6-老中稲葉正邦国内事務総裁(内閣制へ) 5.8−会藩公用人小野、中川宮出仕を要請(大原議秦就任阻止) 5.13−第1回四侯会議(兵庫開港の勅許と長州処分) 政改革) 5.14-四候、慶喜と会見。慶喜、勅許獲得の周旋を依頼。久光、長州藩主父子の官位復旧・幕府反正が先、全国会議の上で開港勅許と主張。容堂、王政復古を説く。また、官位復旧と開港勅許は同時にと主張。(四候の分裂) 5.23−四侯連名の建言書 5.24−慶喜、兵庫開港と長州寛大の勅許獲得(摂政二条斉敬の秦上) 5.27-四候、慶喜に抗議の上書 5.29−紀州藩、賠償金支払い。在京薩長藩士の討幕決行の議決定 |
(注)参考史資料は同時代史料、後年の回想録・回想談、伝記・口伝、実話に取材した読物の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。資史料の語句をそのまま引用しているのは「」で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。 |
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