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木津屋橋通−本光寺−七条油小路

伊東が最後に歩いたルート、衛士たちの激戦の跡をたどってみました。
無念だったろう衛士らに気持ちがシンクロし、無口になってしまいました。

木津屋橋通(伊東暗殺の場所)


↑油小路通から木津屋橋通をみる。

慶応3年11月18日、新選組は、御陵衛士として隊を分離して勤王活動を展開していた伊東を罠にかけて暗殺するために近藤妾宅に呼び出した。同志は罠を心配して引きとめたが、伊東はきかずに出かけた・・・。(慶応3年11月18日(1) 近藤、伊東を妾宅へ呼び出し)。近藤妾宅で歓待された伊東は、酩酊して帰営中、木津屋橋近くで、待ち伏せの新選組隊士数名に襲われた。物陰から突然、槍で肩から喉を刺し貫かれたのである。伊東は、瀕死の重傷を負いながらも、刀を抜いて応戦し、一名を斬捨てると油小路通りを北へ向った・・・(油小路事件(2)伊東、新選組に暗殺される) 

本光寺(伊東絶命の場所)

伊東は、油小路通りを北に数メートル行った本光寺あたりで、力尽きたか、門前の門派石に腰を降ろし、切腹をしようとした。このとき、伊東は「王事に尽くさんがために投げ出した命なれど、最早命運尽きたるは残念至極。新選賊!」と言って絶命した・・・と本光寺に伝わっているそうである(昭和48年に油小路に殉難の碑が建てられたときの除幕式における住職吉田智照氏談話(談話:『新選組誠史』に収録)。

 
左:本光寺 
右:伊東が割腹しようと腰をかけ、絶命した油小路通本光寺の門派石。現在、移動されて門の中にある。このため、新選組本に「伊東は本光寺に逃げ込んだ」とするものがあるが間違い。「尼寺に逃げこんだ」とかいてあるものにいたっては、伊東への悪意が透けてみえて悲しい。

七条油小路
(油小路の闘い、藤堂平助・毛内監物・服部三郎兵衛戦死場所)



↑七条油小路辻を南から北へ見る。
ただし、明治以降、七条通は北側(写真後方)に拡張されたというので
幕末当時は手前側半分くらいの狭さだったようだ。

新選組は伊東の遺体を引きずって七条油小路辻に放置すると月真院に使者を送った。伊東の遺体を囮にして衛士を皆殺しにしようという計画である。

18日から19日に日付の変わる頃、月真院で伊東暗殺の報をきいた御陵衛士7名は騒然となり、油小路に急行した。伊東の遺体を駕籠に収容しようとしたとき、待伏せの新選組に南と西から襲撃され、死闘となった。衛士4名は重囲を斬りぬけたが、藤堂・服部・毛内の3名が討死した。藤堂24歳、毛内33歳、服部36歳であった。

伊東と藤堂・服部・毛内の遺体はまとめて七条油小路辻に放置され、残党をおびきよせるために晒された。西本願寺侍臣や泉涌寺塔中戒光寺長老が埋葬させてほしいと頼んだが、聞き入れられなかった・・・。遺体は数日間晒された後、新選組菩提寺の光縁寺に葬られた。彼らの遺体は、鳥羽伏見の戦いで新選組が退京した後、生き残りの同志の手で戒光寺に改葬された。

なお、新選組本にはめったに紹介されないが、油小路事件は朝廷にも動揺をもたらし、新選組を切腹させるといったんは決まったほどであったという。(新選組が退京して沙汰やみとなったそうだ)

11月19日:油小路事件(3)油小路の戦い 11月19日:油小路事件(4):伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、薩藩に入る。阿部・内海、土佐藩邸に保護を断られ、戒光寺に11月20日篠原・阿部・内海、今出川薩摩藩邸に保護される /薩摩藩中村半次郎、衛士残党に坂本・中岡暗殺犯(新選組の関与)について質問する/ 11月21日:篠原・阿部・内海、伏見薩摩藩邸へ。三樹らと合流

<油小路で闘死した3名の衛士の遺体状況>
藤堂平助 油小路南西手に倒れおり候・・・傷は両足、横腹2ヶ所、面上鼻より口へかけ深さ2寸ほど、長さ7寸ばかり。刀を握り候まま果ており候。
毛内監物 油小路通七条少し上ル東側に倒れおり候・・傷は書き尽しがたし。五体離れ離れに相なり、実に目もあてられぬさまに御座候。かたわらに刀の折れ候ままこれ捨ておかれあり、脇差を握り候まま果ており候。
服部
三郎兵衛
同所辻北東手に倒れおり候・・傷は背中数ヶ所。これは倒れた候ところを散々に斬りつけ候おもむきにて、傷の数分からず(数えきれず?)。うつむけに倒れおり候を翌日あおむけ候ところ、腕先・三ヶ所、股足・四〜五ヶ所、かかと一ヶ所、胴腹一ヶ所。流血おびただしき。
(『鳥取藩慶応丁卯筆記』より作成)


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