12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3 テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ
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慶応3年11月20日(1867年12月15日)、二条城に登城した春嶽は慶喜と謁見し、慶喜の政権奉還は真意であると納得して、尽力を誓ったそうです。 【もっと詳しく】 この日、二条城に登城した春嶽は慶喜と面談しました。このとき、今後の御事業(王政復古?)の見込みについて尋ねた春嶽に対して、慶喜は 「政権を還し、政令を一にして、皇威を復し、天下の心を合わせ、諸侯を会同し、公議を興し、天下の疑を去り、皇国の維持に一世の力を尽して、綱紀を振起し、神祖尊王・至治の鴻業を継述しようと思うより外、余念はない」(口語訳byヒロ) と言ったそうです。春嶽はそれまで政権奉還は権謀でないかと疑っていたそうですが、慶喜の考えを聞き、尽力を誓ったそうです。帰邸した春嶽が家老らにも慶喜の考えを聞かせたところ、「臣子の御奉公はこの秋にあり」とみな感激したそうです。 関連: 慶応3年11月10日:慶喜、二条城で春嶽に謁見。政権返還は本懐であると告げる *時間ありません、コメントはいずれ〜〜〜。 参考:「丁卯日記」 (2002.12.15) 慶応3年11月20日(1868年12月15日)、油小路事件で中心人物伊東甲子太郎ら4名を失い、新選組に追われる生き残りの御陵衛士たちのうち、篠原秦之進・阿部十郎・内海次郎が今出川薩摩藩邸に保護され、前日に保護されていた三樹三郎・加納鷲尾・富山弥兵衛と再会しました。 ★二十日・・・一、篠原秦介かけ入、一、内海次郎、阿部十郎(中村半次郎「京在日記」) ★篠原は夕七ツになってから薩摩藩邸に身を投じた。藩士の遠武橘次は「あなたがたの勤王の志を貫徹するつもりなら、われわれは助力しよう。必ず晴れて国家につくせるときがくるから、それまで安心して休息されたい」と丁寧に応接してくれたので、その深情、誠心が一々身にしみて、感涙が滝のように流れた。(篠原泰之進あるいはその息子の手記『秦林親日記』より作成。ただし、「秦林親日記」では19日のこととされている。とりあえず、同時代記録の中村説をとった)。 ★土佐藩に庇護を断られた阿部・内海は戒光寺に戻った。さらに伊東らの遺骸の引渡し要請をはかったが、やはり近藤は渡さなかった。やむをえず、泉涌寺の東山の中を駕籠で送られて黒谷の土州の有志のいるところ(陸援隊)を訪ねた。すると薩摩藩の中村半次郎が門前で待っていて「よく来た。昨日(19日)は土佐藩邸で保護を断ったそうだが、はなはだ不都合だった」といって中へ入れてくれた。話をきくと、三樹・加納・富山が薩摩藩で匿われているということで、日の暮れるのを待って、中村らに護衛されて薩摩藩に送られ、同志と再会した。(阿部隆明談『史談会速記録』より作成) <ヒロ> 阿部は水戸藩吉成勇太郎邸に潜伏していたときに中村と懇意にしたそうです。坂本・中岡暗殺事件後に衛士が市中にいることに身の危険を感じた阿部は、中村の手引きで、薩摩藩邸を訪問し、吉井幸輔・西郷隆盛に面会して(当時、西郷は京都にいないので西郷にあったというのは明らかな間違い)、薩摩藩に保護してほしいと依頼しましたが、そのときは吉井に「幣藩に於ても未だ嫌疑の晴れぬのだからして、どうも屋敷に匿うわけには行かぬ。何か実効を立った以上ならば兎に角宜しかろうと思う、助勢はするけれども、今日の所では藩邸に匿う訳に行かぬから」と断られています。伊東が殺害されて、嫌疑がとけたことになったのは皮肉なことです。薩摩藩の疑いについてはこちら 関連: ◆慶応3年11月18日:油小路事件(1)伊東、近藤妾宅へ呼び出される 11月18日:油小路事件(2)伊東、新選組に暗殺される 11月19日:油小路事件(3)油小路の闘い 11月19日:油小路事件(4):伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、薩藩に入る。阿部・内海、土佐藩邸に保護を断られ、戒光寺に。11月20日篠原・阿部・内海、今出川薩摩藩邸に保護される /薩摩藩中村半次郎、衛士残党に坂本・中岡暗殺犯(新選組の関与)について質問する/ 11月21日:篠原・阿部・内海、伏見薩摩藩邸へ。三樹らと合流。坂本・中岡暗殺犯について証言/ 11月24日薩摩藩吉井幸輔、伊東の暗殺についてコメント。 ■別館HP「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」 ***** 薩摩藩邸に保護された生き残りの衛士たちは、坂本龍馬暗殺犯について中村半次郎に質問されました。 ★この日、土佐藩福岡孝弟は、幕府若年寄永井尚志に招かれて行ったところ、永井は、中岡慎太郎・坂本龍馬暗殺について、永井も疑われていること、真相を究明することなどと述べたそうです。福岡は帰りがけ、薩摩藩に寄り、中村半次郎から、薩摩藩が保護した衛士生き残りから、坂本・中岡暗殺事件の大要が判明したと聞いたそうです(「一昨日(昨日の間違い?)御邸(土佐藩河原町藩邸)へ駆込候新撰、薩へはいり候由、其者の口にて新太郎(中岡慎太郎)梅太郎(坂本龍馬)一事大要分り候事。但恭助中村半次郎より聞」)(11月20付神山左兵衛日記) <ヒロ> ちなみに新選組犯行説は、すでに、坂本・中岡暗殺当夜には流れていたようです。そのことを確認したということではないかと思います。 関連: 慶応3年11月15日−坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺。新選組犯行説流れる <参考> 『中岡慎太郎 新訂陸援隊始末記』・『新選組史料集コンパクト版』・『新選組研究最前線』・『高台寺党の人びと』収録・引用の史料。 |
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