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「残し置く言の葉草」の原本と比較したところ、これまで公刊されていた小野版は原本とかなり違うことがわかりました。原本版はこちら。みなさんのご参考のために、小野版も残しておきます。 |
残し置く言の葉草(2)恋・志の歌など |
「残し置く言の葉草」の伊東甲子太郎の草稿を悟庵という人が撰んだ歌集です(詳しくはこちら)まずは、歌を簡単なコメントとともにご紹介し、少しずつ、素人解釈をつけていこうと思います。(現在までに、「梓弓」の歌の解釈をつけました)。志に命を賭けて散った人物の残した歌です。やおい作品への悪用は絶対にやめてくださいね。(紹介する管理人のショックも甚大:涙)。解釈の盗用もやめてね。 |
47 48 49 50 51 52 53 54 |
題しらず むら雲のかかれる月の思ひもや花にうち吹く春の山風 (むら雲のかかれる月のおもひもや花にうち吹く春の山風) 数ならぬ身をばいとはず秋の野に迷ふ旅寝もただ国の為 (数ならぬ身をはいとはて秋の野に迷ふ旅寝もたた国のため) 秋来ぬと目にこそ見えねかり枕たび寝さびしき虫の初声 (秋きぬと目にこそ見えねかり枕旅寝ひさしき虫の初声) 心なき人に見せばや秋の野に咲き乱れたる萩の盛りを 我が袖の雫にいざや比べ見む咲き乱れたる萩の下露 心なき人を心に思ひそめ心乱るる秋の萩原 (心なき人を心に思ひそめこころみたるる秋の萩原) 露深き秋の萩原分け行けば身にも知られず袖しぼるなり (霧深き秋の萩原わけ行けは身にも知られす袖しほるなり) 予てより明日ある身とも思わはねばいかで契を結び留むべき (兼ねてよりあすある身とも思はねはいかてちきりを結び留むへき) |
48、49=国事のための秋の旅(49は立秋(8月7日頃)前後)。孤独な旅のようだ。慶応3年の8月は海路筑紫への旅なので、慶応1年か慶応2年の新選組在隊中のこと。17-28&55-58の中山道の旅と同時期かもしれない。 49=藤原敏行の「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(古今)が本歌? 50-53=秋。50.52=誰か(花香太夫?)に出会い、恋し始めた・・・。51=袖の雫は涙のこと。恋の涙?(伊東は慶応3年秋(8月下旬頃)に長門で萩=長州の歌を詠んでいるが、花香への恋であれば、慶応1年か2年の秋)。 54=73と並んで管理人の好きな伊東の恋の歌。国事に奔走し、明日も知れぬと覚悟する自分が、どうしてかの人と契りを結び留めることができようか・・・。「契りを結ぶ」は夫婦になること。ウメとのことを詠ったものかもしれない。また、花香を身請けしたい、しかし自分が死ねば彼女はどうなるのか・・・そう思って躊躇する歌かもしえない。だとすれば時期的には上の恋の歌より後、御陵衛士分離後の慶応3年春以降だと推定。 |
55 |
霞ヶ関にて 同じくは空に霞の関もがな雲路の雁をしばし留めぬ |
これも秋の歌。武州川越近くの霞ヶ関なら中山道を旅中となる(17-28と同時期かも) |
56 |
武蔵野 逢ふ人に問へど変らぬ同じ名の幾日になりぬ武蔵野の原 |
中山道の武州(本庄〜板橋)を旅中のようだ(17-28,55と同時期?)。武蔵=保守的でなかなか変わらない幕府にかけているのかもしれない。 |
57 |
醒ヶ井の里にて 夢うつつうつつに過ぎぬ旅ながら今日醒ヶ井の里や越やまし |
醒ヶ井は中山道61番目の宿(近江国坂田郡)。26の柏原宿の歌の続きではないか。関連=旅の窓口醒ヶ井 |
58 59 60 |
春の歌の中に 春風の糸よりかくる青柳のただ一すぢを吹きな乱しそ ゆかしくも袖に泊りし花の香を吹きな散らしそ春の山風 朧なる花の闇夜をいかにせん香をのみ袖に留めてぞ行く |
慶応2年春? 59、60=おそらく花香への恋の歌。袖の香は残り香のことで、逢瀬の名残を惜しむ歌だろうと思う。どちらも艶っぽくって好きです^^。 |
61 62 63 64 65 |
志を陳ぶ 世の為に尽す誠のかはらずば我が大君の楯とならまし (世の為めに尽す誠のかなはすは我大君のたてとならまし) よしや身はいくせの淀に沈む共世の憂き事を救はざらめや (よしや身はいくせの淀に沈むとも世のうき事をすくはさらめや) 咲き匂う花の盛りと聞きしのみ香をだに留めで春は過ぎけり 心から恥ずかしきかないたづらに暮して年を惜しむ習ひは (心からはつかしきかないたつらに暮して年ををしむならひは) 大君の大御心を休めずばいかに苦しき身をいとはなむ (大君のおほみ心をやすめすはいかにくるしき身をいとはなん) |
志もたまには(笑)詠んでます。 63=素直に読むと、国事に奔走するばかり花を愛でるひまもなかったという歌だが、花香と逢う余裕もなかったということかも(でも、上の歌では逢ってそうですよね^^;) なお、61,62は『新選組違聞』では「述懐」の題の下、64、65は「題知らず」の題の下でに紹介されている。『新選組覚書』も原文どおりでないのかもしれない。 |
66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 |
題しらず 大丈夫の矢走の渡し渡るとも渡り難きはうき世なりけり (もののふの矢走の渡しわたるとも渡り難きはうきよなりけり) 都をば出でて草津の草枕あなおもしろき言の葉の露 美しき人の守りぞ真心のかはらぬ色に花も咲くべき(★) (うつくしき人のまもりや真心のかはらぬ色に花もさくへき) 蓑笠をかつぎたりとも濡れられむ涙の雨のかかる世の中 国のためそそく涙のそのひまに見ゆるもゆかし君の面影 おのれのみ深き淵には沈めども浅しと見ゆる川竹の身は 流れ行く人の心の浅ければわれのみ深くもの思ふかな (流れ行く人の心の浅けれはわれのみ深くもの思ふかな) おのれのみ深くも思ひそめにけり移ろひやすき花の色香ぞ (おのれのみ深くも思ひそめにけりうつろひやすき花の色香そ) 恋しさを何に比べむ白雪の富士の高嶺に積る思ひを 千代とまで契る色香もかひぞなき風にまかする花の行く末 仰ぐべし我が身の上の梓弓君と親の情あつきを (あふくへし我身の上のあつさ弓君と親との情あつさを) 文字消ゆる此の薄墨の玉づさも絶えぬ涙のかかるぞと知れ いかにせむ都の春も惜しけれど馴れしあづまの花の名残を(★) (いかにせん都の春もをしけれとなれしあつまの花のなこりは) |
66,67=上京後、東海道(?)を下るときの歌。矢走=矢橋(現草津市)。元治2年春の東下時? 68、70、71、72、73、74と、自分の深い思いに比べて相手(花香?)の真心は・・・と恋に悶々。かなり相手に翻弄されている模様。70の「川竹の身」は「川竹のように流れる身→遊女(=花香)」だと思う。71の「流れ行く身」も同じ。「心浅し」は情が薄いこと。74は「千代の契り」から、ウメと離婚後で、花香の身請けを意識しだした頃の歌かも。68は妻ウメへの歌かも。 76=伊勢物語中の「梓弓」の男の身の上を自分に重ね合わせた歌?「梓弓」の解釈に悩む管理人に、松濤さんからは梓弓→月(三日月)の形→歳月(来し方)で、ある覚悟を決めた人物が月を見上げてこれまでのプライベイト来し方を振り返っている歌ではないかかとのご意見をいただきました。(★) 77=国を思う涙というより、恋の涙か(すっかり邪心モードの管理人^^;) 78=春の歌。古語では「惜し(をし)」は「愛し」とも書かれる。「名残」は余韻・心残り。花香(都の春)へのときめく思いと、江戸の妻ウメへの断ち切れない思い(なれしあづまの花の名残)との間で揺れる歌では。『遺聞』では「あつまの花」という題がついている。 |
79 |
恋 逢ふまでとせめて命の惜しければ恋こそ人の命なりけり (逢ふまてとせめて命のをしけれは恋こそ人の命なりけり) |
管理人の一番好きな伊東の恋の歌です。国事に命を捧げた自分だけれど、あなたに逢う(逢う瀬を遂げる)まではその命が痛切に惜しい。そうか、恋こそ人の命、この恋こそ自分の命なんだ・・・。そんな歌だと思います。 実は堀河右大臣の「逢ふまでとせめて命のをしければ恋こそ人の祈りなりけれ」(後拾遺)の本歌取りです。「祈り」では、国事と恋のはざまにゆれる自分の思いを表すのに足りず、「命」に変えて詠んだのではと思います。 |
(1)上京、望郷、山南割腹弔歌等 | (2)恋、志、等 | (3)春・真心(妻への別離) | (4)慶応3年・九州出張等 | (5)歴史上人物等 |
他HP・同人誌・商業誌(創作も含む)、レポート等作成の参考にされた場合は 参考資料欄にサイトのタイトルとアドレスを明記してください。 無断転載・引用・複写、及びやおい作品へのご利用は固くおことわりしますm(__)m。 歌の出典:『新選組覚書』収録の「残し置く言の葉草」 ()内は『新選組遺聞』収録分。順番は『覚書』に沿っています |
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