1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ  次へ

文久2年11月19日(1863.1.8):
【江】横井小楠、勝海舟に「攘夷は興国の基を言うに似たり」と説く/
【江】老中板倉暗殺計画:山内容堂、暗殺計画者の説得を承諾。

■横井小楠と勝海舟
【江】文久2年11月19日。越前藩政治顧問の横井小楠は、訪れた軍艦奉行並の勝海舟に、「攘夷は興国の基を言うに似たり」で、興国には全国諸侯の一致と海軍振興が必要だと説きました。

勝海舟は日記に横井小楠を「先生」と記しています。日記によれば、二人のやりとりは以下の通りでした。

「此頃世間開鎖(=開国と鎖国)の論、皆服さざる処也、それ開閉は往年和戦を論ぜしと同断にて、唯文字の換りしのみ、何の益かあらん哉」
小楠 「実に然り。当今しばらく此異同を言わずして可ならん。それ攘夷は、興国の基を云に似たり。しかるを世人徒らに夷人を殺戮し、内地に住ましめざるを以て攘夷なりとおもうは甚不可なり。今や急務とすべき、興国の業を以て先とするにあり。区々として開閉の文字に泥むべからず。興国の業、候伯一致(=全国諸侯の意見の一致)、海軍盛大に及ばざれば能わず。今や一人も爰に着眼する者なし、又歎ずべし」

<ヒロ>
●「攘夷は興国の基」by横井小楠
小楠のいう「攘夷は興国の基」とはどういうことでしょうか?元来開国論の小楠ですが、この時期は破約攘夷を唱えていました。ただし、幕閣のように朝廷が要求するからとりあえず攘夷といっておこうというのではありません。小楠の主張は、現在の条約は幕府の「私」により結ばれたものでもあり、不当なので、必戦覚悟で破約攘夷を実行しようというもので、その後の全国諸侯会議の公議公論による国是決定(⇒最終的に自主開国を期待)及び海軍振興とセットになっていました(こちら)。そういうわけで、彼にとっての攘夷は「興国の基」ともいうものであり、単なる外国人殺害・排除とは区別されなくてはならないのでした。

●「開鎖の論、何の益かあらん」by勝海舟
海舟はどうして「開鎖は往年和戦を論ぜしと同断にて、唯文字の換りしのみ、何の益かあらん哉」と尋ねたのでしょうか。実は、同月6日の海舟の日記に やはり「開鎖は、和戦を以て論ぜしと同義にして無用の談のみ」と記されています。海舟は、この危急の時、重要なのはダラダラと議論をすることではなく、有用な人物を用いて大政を一新し、人心を一致させることだと思っていたようです。

<区区として開閉を論ずるのは天下の形勢を知らない無識の言である。今は危急のときである。幕府首脳は衆説に雷同せず、有識者を要路に置くべきだ。でなければ、大政一新が成る日などこないだろう。道理の至当を採らず、浮説を採り、衆議をもって賢才を排除すれば、群議はいつまでも止むまい。およそ開鎖は和戦を論じるのと同義で無用の談である。武備充実の基は人心一致にある。人心一致ならば彼(西洋列強)を恐れる必要などあるだろうか。今もし宇内に雄を争うとしても、(人心一致による)威権がなければ開国鎖国どちらも立ち難い。万策があるとしても、人材がなくては誰が英挙を継ぐことができるのか。傍議を恐れ、着眼のない者は、天下の形勢を洞察することなどできるわけがない。ただ一事が起るごとに、詠歎してむなしく切歯するだけである>(仮意訳by管理人)。

海舟がこのような慨嘆を記したきっかけは、前日(5日)に海舟が尊敬する大久保一翁が側用取次から講武所奉行に更迭されたこと(こちら)、その理由は開国論主唱者として京都で不評だったからだという風聞を聞いたからでした。また、この頃、海舟は幕府に対する不満が鬱積しており、軍制改革会議に出ても、一言も発しないという状態が続いていました。そこで、自分の意見を「先生」に聞いてもらいたかったというところではと思います。

小楠のいう「(急務である)興国の業、候伯一致、海軍盛大に及ばざれば能わず」は海舟の意見と一致しているように思いますので、海舟は自信をもったのではないでしょうか(やっぱり、先生も同意見だった!みたいな^^)。ただ、小楠の必戦覚悟・破約攘夷論については海舟の感想が載っていないので、海舟が同意したかどうかは判断することができないのは残念です・・・。松浦玲氏は「(小楠の論に)賛成したかどうかには、やや疑いがある」(『勝海舟』)とされています。この点については、管理人の勉強が足りないので、もう少し理解が進んでからコメントしたいと思います。

●横井小楠と勝海舟
日記でも小楠を「先生」と記している海舟は小楠をほんとうに尊敬していたようです。後年、こんなことも言っています。

おれは、今迄に天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州(隆盛)とだ。横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教えてやったくらいだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思った事が縷々あったヨ。おれは窃に思ったのサ。横井は自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用いる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だと思ったのサ」(氷川清話)

また、海舟は小楠に「長崎で初めて会った時から、大に敬服し」たそうで、「小楠は、とても尋常の尺では分らない人物だ。併し実際、物のよく分って、途方もない聡明な人だったヨ。おれが米国から帰った時に、彼が米国の事情を聞くから、色々教えてやったら、一を聞いて十を知るという風で、忽ち彼の国の事情に精通してしまった」(同)とも言っています。(まぁ、小楠をすごいといいつつ、その小楠に「教えてやった」のは自分なんだってところがミソなのかもですね^^。ツッコミがいのあるやっちゃ:笑)。

●おまけ「一和同心」by伊東甲子太郎
御陵衛士(伊東)が重要視していたのは「一和同心」でした。小楠の「伯候一致」・海舟の「人心一致」と通じるところがあると思います^^。衛士/伊東は大開国大攘夷(積極開国)・海軍振興を唱えているので、そういう意味でも小楠・海舟らと近いです。

参考:『勝海舟全集1幕末日記』・『続再夢紀事』一・『幕末維新史料叢書2氷川清話・幕府始末他』
『勝海舟』(中公新書)・『横井小楠 儒学的正義とは何か』(朝日新聞社)(2002.1.8)
関連:■勝海舟@文2 ■横井小楠@文2   

■板倉老中暗殺計画
【江】文久2年11月19日、松平春嶽は用人中根靱負を山内容堂に遣わし、老中板倉勝静暗殺を計画する「壮士」の説得を依頼しました。

前夜の老中水野忠精の依頼(こちら)を受けてのことで、容堂は「壮士」説得を承知しました。この日の幕議では、万一板倉が因循を脱せず、朝廷尊奉の誠意がなければ何も起らないと保証できないので、試しに明日より登城するようにと申し入れることになりました。

<ヒロ>
幕府においては、犯人捕縛という強硬策(ある意味、幕府としては当然の行為)ではなく説得という穏健策が議論されたのは、板倉の方に非があるという見方からのようです。といっても、幕権維持派が主流の幕閣が本気でそう思っていたとは思えませんけれど、流れに押されちゃったのでしょうか・・・。計画は未発に終りますが、幕威の凋落をさらに印象づける一件だったのではと思います。

参考:『続再夢紀事』一(2002.1.8)
関連:■テーマ別文久2「老中板倉勝静@文2


前へ 次へ

1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ