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文久2年11月4日(1862.12.24):
【江】左遷?(3)幕府、大久保一翁(忠寛)の講武所奉行転出を決定

■大久保一翁(忠寛)更迭
【江】文久2年11月4日(、幕府は総裁職松平春嶽の反対を押し切って側用取次大久保忠寛の講武所奉行転出を決めました

この日、幕府では、前日(こちら)に引き続き、大久保忠寛(一翁)の更迭問題について評議が行われました。

慶喜 最近、春嶽殿の越中を贔屓されることに不平を抱き、かれこれ議することがあるようだ。彼一人のために多数の諸有司(幕府官僚)がこのように不平で何事も実行することができない。惜しい人材だが、一時転出させるべきだろう
春嶽 (激怒して)拙者が越中を贔屓しているのは間違いない。天下の重任に当たる身分の自分が、「正人端士」を贔屓せずに誰を贔屓すればよいのか。「百事私を去て公に従わんとする今日」であれば、広く天下の「正人端士」を登用すべきである。然るに一人の越中をさえ俗人の言のために転職させようとするは、拙者の取らざるところである
板倉 (春嶽が老中板倉勝静の意見を質すと)御両説ともご尤もなので、どちらをどちらとも言えない

春嶽は尚も忠寛転出反対を唱えましたが、実は、すでに講武所奉行に転出させるとの案で決定しており、あとは将軍の意見をきくだけの運びになっていたのだそうです。怒った春嶽は<それでは自分への相談など必要ないではないか>と言い放ったそうですが、空しいことでした・・・。忠寛は翌5日、講武所に転任になりました。

『続再夢紀事』では、どうやら、板倉は事前に慶喜と申合せていたようだと推測しています。

追記:
徳川慶喜の後年の回想によれば、続再夢紀事の記事は真相を誤るもので、「(側用取次の)職に当る者は、最も公平質直ならざるべからざるに、越中守は器量こそありたれ、資性偏固にして、事を執るに当り、己が意に合うと合わざるとによりてすこぶる手心を用い、政務を阻碍すること少なからず。予は板倉周防守とともに直接将軍家に伺いてその事実を確かめたれば、周防守と議して外転せしめたるなり。下よりの議論に余儀なくせられたるにはあらず。けだし越中守も、外転の事情は定めて自覚しいたるなるべし。春嶽は越中守ほどの者はなしと思い込みいたればこの議に反対してなかなかむつかしかりき。これより先、越中守は京都町奉行の時も、井伊・間部の意を承けて相応の働きをなしたりと聞けり」という事情があったということです。(『昔夢会筆記』第四)

<ヒロ>
忠寛は、以前、横井小楠に対して、板倉を俗論家と評し、その板倉が慶喜を俗論に引き込んでいるとの見方を示しており、「幕府の私論」打破に尽力すると述べたことがありました(こちら)。「私論」の親玉はさしづめ板倉でしょうか。「公論」派の春嶽が忠寛の意見をひいきすることに不満をもつ者は板倉に他ならないという気もするのですが・・・。(←嫉みとかいう次元ではなくですが)

忠寛の側用取次としての適性には老中格小笠原長行も疑問を呈しており、10月25日にはその罷免を板倉に要求していましたが、そのとき板倉は「俄かには難しい」と回答していました(こちら)。 小笠原もまた、春嶽が忠寛をひいきすることに不平をもつ一人であったようです。

参考:『続再夢紀事』一、『昔夢会筆記』(2003.12.24)
関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏「大久保一翁」


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