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文久2年9月16日(1862.11.7)
【江】幕府、一橋慶喜の先発上京・開国上奏の方針を決定
【江】越前藩、「必戦覚悟の条約破棄⇒公議⇒自主開国」の幕府具申を議論
【京】薩長土有志、攘夷勅旨奏請を決議

■攘夷奉勅VS開国上奏
【江】文久2年9月16日、明年の将軍家茂の上洛に先立つ後見職一橋慶喜の上京が決定し、開国を上奏する方針が決まりました。


<ヒロ>
慶喜が上京するからには、懸案の攘夷問題について幕府の意見を伝えねばなりません。幕府は表向きは攘夷だといっていましたが、破約攘夷(鎖国攘夷)は実行不可能だと考えていたからです。そういうわけで、京都では破約攘夷論が主流となっていましたが、幕府では、慶喜に、開国がやむをえない理由を朝廷に伝えさせる事になりました。しかし・・・開国上奏論に対して、思わぬところから反対が起きます。元来は開国論である政事総裁職の松平春嶽です。↓

【江】同日、越前藩は、必戦の覚悟で条約を破棄した上での全国一致の決議(諸侯の公議公論)による開国・鎖国の国是決定を幕府に具申することを議論しました。

●必戦覚悟の破約攘夷論
春嶽のかねてからの持論は開国でした。ところが、この頃には、春嶽(あるいは越前藩?『続再夢紀事』ではどちらか判然としない)は、現行の通商条約は破棄すべきだと思っていました。なぜなら、現行の条約は「国家永遠の計」ではなく「一時姑息を以て」結んだものであり、加えて、勅許を得ずに調印した「不正の所為」の所産だったからです。春嶽(越前藩?)にとって、真の開国とは外国の圧力によるものではなく、自らの意思で選ぶべきものでした。そのためには、まず条約破棄によって「天下を挙て必戦の覚悟を定め」させ、その上で全国の大小名に国是を議論させ、「全国一致の決議」を得て自ら開国を求めるべきだというのです。もちろん、公論が鎖国となった場合はそれに従い、外国との戦争に進むことになります。要するにそこまでの覚悟を定めて鎖国か開国かを真剣に議論せよということで、基本的には「必戦破約→公議→自主開国」論であり、いわゆる鎖国攘夷論とは違います

この日、幕議で慶喜上洛による開国上奏が内定したのを受け、松平春嶽(政事総裁職)は上記意見を幕府に主張すべきときではないかと判断し、重臣たちに再度論議をさせたようです。その結果、重臣たちは必戦破約を提議することで一致しました。(重臣たちの意見は<最近、開国鎖国の得失は朝廷でも理解しているようである。今さら「古めかしき開国説」など言上して、万一、その得失は分っているが今日のような姑息な開国は望むところではない・・・など言われたらどうするのか。仮に開国説が容れられたとしても、物議紛々となり、「一層人心を激し或は外国人を暴殺し或は其家屋に放火する」ことになるかもしれない。もしそうなれば、容易ならぬ国難であるので、開国説には軽々しく同意せず、先ごろ決めたように、「条約を破却し必戦の覚悟を定しむべし云々」の意見を主張されるべきだ>というものでした)。

春嶽は、自分も素よりそのつもりだが、(開国上奏と定まっている)幕閣において提議するにはさらに熟考が必要だと慎重な姿勢をみせたそうです。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』(2003.11.5)
関連■テーマ別文久2「将軍徳川家茂上洛問題」国是決定破約攘夷奉勅VS開国上奏」 ■越前藩日誌文久2 

一方、破約攘夷で朝議が確定した京都では、幕府へ攘夷を督促するための勅使東下論が高まっていました・・・。↓

■攘夷別勅使の東下
【京】文久2年9月16日、薩長土の尊攘急進派の有志が集まって、三藩共同で攘夷の勅旨を奏請することを決議しました


<背景>
公武合体派で破約攘夷は無謀とする薩摩藩国父島津久光(こちら)の退京後、朝議は、破約攘夷論で確定し、長州藩には幕府が早々に攘夷を決定するよう周旋せよとの沙汰も下りました(こちら)。幕府に攘夷実行を督促する手段として、薩長土の激派は、攘夷勅使を関東へ派遣することを考えていました。正使には三条実美、副使には姉小路公知を擬し、勅使には土佐藩主山内豊範を随行・周旋させるつもりでした。長州藩・土佐藩はこの線で動きましたが、当初、薩摩藩要路は、久光の論により、武備が充実しないままの攘夷は尚早との意見で、勅使派遣には同意しませんでした。また、朝廷の実力者である青蓮院宮は、三藩の意見が一致しない破約攘夷は機会尚早だとの考えを示していました。

この日、武市は小南五郎衛門と初めて青蓮院宮に謁見して(意見を確認した)後、薩摩藩・長州藩の激派(本田弥右衛門・藤井良節・高崎左太郎(正風)・村山斎助、宍戸左馬介・佐々木男也・久坂玄瑞など)と集まり、攘夷勅使について協議しました。薩摩藩も、大勢が決したのをみて敢て異議を唱えることをせず、ようやく三藩が一致して奏請することになったそうです。青蓮院宮も、反対の理由がなくなり、攘夷督促の勅使派遣は決定することになります・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』、『維新土佐勤王史』(2003.11.5)
関連■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 ■テーマ別「第2の勅使(攘夷督促&親兵設置)東下 ■長州藩日誌文久2 

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