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文久3年9月13日(1863年10月25日)
【江】牧野忠恭、老中に
【坂】長州家老根来上総着坂
【京】新見錦と同一人物?田中伊織暗殺される

【江】文久3年9月13日(1863年10月25日)、長岡藩主牧野忠恭が老中に就任しました。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.11.27)

長州家老の上京・嘆願
【坂】文久3年9月13日(1863年10月25日)、長州藩家老根来上総が藩主毛利敬親の嘆願書を携えて大坂に到着しました

根来は8月29日に山口を発っていました(こちら)。

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」「長州藩の攘夷戦争」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史』(2004.11.27)p552

【京】文久3年9月13日(1863年10月25日)、曇天。近藤の意に従わない田中伊織が暗殺されました。(西村兼文「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」、壬生寺墓碑)

<ヒロ>
田中伊織の履歴は不明です。しかし、芹沢派NO2の新見錦と田中の名を同時に記した名簿がないこと、諸記録に新見も芹沢の暗殺前に切腹とされていることから、田中=新見であるという見方があります。

なお、新見の死については、永倉新八の晩年の回想談をもとにした読み物『新撰組顛末記』により局中法度に照らしての切腹をさせられたという説があり、膾炙しているようです。しかし、当の永倉新八が明治初期に記した直筆の「浪士文久報国記事」では、新見は乱暴者で近藤・芹沢が説得しても聞きいれず、水戸浪人吉村常郎のところで乱暴を働き、別の水戸浪人梅津の介錯で切腹したとされています。(なお、この後、芹沢は段々代わって乱暴がひどくなり、朝廷から召し捕れと命令があったが、まさか局長を召捕るわけにもいかず、一室に謹慎させることにしたそうです)。水戸浪人吉村は、本国寺党の吉村恒次郎を指すのかもしれません。 吉成恒次郎は、戊午の勅諚返納反対に長岡に屯集した激派(長岡勢)の残党であり、万延元年8月に、同志37人とともに「天下浪士」と称して江戸の薩摩藩邸に駆け込んで、攘夷の先鋒を務めたいとする意見書を提出しました。薩摩藩邸では彼らを水戸藩邸に引渡し、その後水戸藩邸に幽囚されていましたが、文久2年11月下旬の幕命により、赦免されました。彼らは藩主慶篤の上京に随行を願ったが許されず、長州藩の伊藤俊輔に連れられて、文久3年3月初めに上京していました(こちら)。

さらに、霊山博物館の学芸員木村幸比古氏によれば、新見は霊山護国神社に祀られているそうで、これをもって新見が長州の間者だったのではないかと推測されています。

参考:『新選組史料集コンパクト版』・『新選組戦場日記』・『幕末維新京都町人日記』2000.10.25、2001.10.25
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