4月トップ  幕末日誌文久3  開国〜開城 HP内検索  HPトップへ

前へ  次へ

文久3年3月1日(1863.4.18)
【京】木像梟首事件:長州藩世子毛利定広、犯人の赦免を願出る/中川宮、容保を批判
【京】浪士組東帰:幕府、浪士組の東帰を決める
【京】親兵設置:長州・伊藤俊輔(博文)、土佐・吉村寅太郎、清河八郎に親兵設置周旋を依頼。
◇間崎哲馬、清河の尽力に感謝

■足利将軍木像梟首事件
【京】文久3年3月1日、長州藩世子毛利定広は、足利将軍木像梟首事件の犯人の赦免を願い出ました。
先般、等持院足利氏の木像を梟首した浪士どもが捕縛され入牢していると承っています。全体、浪人どもは尽忠報国のために滞京し、攘夷の期限を待ちかね、勇憤のあまり、足利氏の逆賊を憎み、名分を明らかにしたいという所存で起こした事件であり、いささかも私心を懐いたものではないと愚察いたします。なにとぞ大赦を仰せ出されるよう伏してお願いいたします。

もし官位のある者を斬首することは朝廷を軽蔑することになるので大赦を行わないということになれば、すでに昨年大赦を受けた浪人のうちに官位のある井伊掃部頭(直弼)を討ち取った者は、朝廷を軽蔑する心は毛頭もなく、皆、精忠の者であり、全く掃部頭の大逆を憎み、国家のためにいたしたことであるので、朝廷も大赦を行われたいう風にと存じております。このたびの浪士の者どもは、ただ足利氏の大逆を正す気持ちから事件を起こしたのであり、掃部頭の討ち取りと同様に存じます。よって愚考いたしますに、名分の明らかな時節ですので、いかなる官位を戴く者でも罪悪があれば罰し、無官の者でも忠勤を尽す者はお褒めになられればと存じます。

(略)・・・すでに外国船が横浜へ乱入し、摂海(大阪湾)に廻るかも知れず、一日も早く打払わねばという時刻に至っておりますので、入牢して月日を送らせ、報国の者を空しくさせては、彼らのために幾重にも嘆かわしく存じます。早々に大赦をおおせ出されるよう伏してお願いいたします

(出所:『七年史』所収の上書。意訳ヒロ。引用は原文にあたってください)

【京】同日、青蓮院宮(中川宮)は 越前藩士に対して、守護職松平容保の強硬策を批判し、人心の折り合う処分をするよう申入れました。

中川宮と、この日、参邸した越前藩士村田巳三郎(氏寿)のやりとり↓(口語訳byヒロ)

中川宮
この程、守護職が木像に暴行を加えた浮浪らを捕縛したそうだが、このような暴行に及んだのだから止むを得ない事ではある。しかし、元来浪士処分については先日来幕府より申立はあったものの、朝議はいまだ決定していない。捕縛しようとするなら予め朝廷へ申し出るべきなのに、申し出がないだけでなく、捕縛の際に槍や銃で突き殺したり撃ち殺したというので、同志の浮浪らはもちろん、旧主家も殊のほか不平を抱いている。輦穀の下をも憚らず、このような手荒な処置に及ぶのは不都合だと頻りに苛立っており、肥後守に腹を切らせるか捕り手に罪を科すか、もしそれが実現せねば肥後守の宿所に押し寄せ謀るところがある等申しておるようだ。なんとか人心の折りあう処置を施すよう、春嶽に告げたく思っていた
村田 人心の折りあう処置も肝要ですが、処置をするにはまず、事の曲直を明らかにせねばなりません。御前はいずれを曲とし、いずれを直とされますか?

中川宮
一応朝廷に申立て、なお旧主へも相談すべきところを、それらをせずに捕縛に着手したのは守護職の軽率である

村田の報告を受けた中根靱負(雪江)が二条城に赴き、慶喜・容堂・春嶽に伝えたところ、一同は一様にあきれ果てたそうです。

慶喜は<宮の仰せではあるが、素より(容保や捕り手の会津藩士を)処置すべき方案もなく、急に処置することもないだろう。しばらく打ち棄て置くしかいたし方あるまい>と述べたそうです。

関連:■テーマ別「足利将軍木像梟首事件」「浪士対策」■開国開城「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■「「志士詩歌」足利木像梟首事件

参考:『七年史』一・『続再夢紀事』一(2003.5.5、2004.4.16)

■浪士組東帰
【京】文久3年3月1日、浪士組に東帰を命じることが決まりました。

この日、二条城に登城した伊達宗城は、後見職一橋慶喜・総裁職松平春嶽・前土佐藩主松平容堂と会合をもちました。このとき、宗城は「関東浪士存意書」を見ています。その主意は以下に要約する通り。
  1. 幕府が尊王攘夷を遵奉の結果、将軍上洛となっているこの時に、英国が戦端を開くことになっては「不宣」なので、早々に拒絶の沙汰を得た上で応対すること。
  2. 将軍は上洛後「一式」が済めば早々に帰府して江戸防衛の指揮を執ること。
  3. 京都の防衛は守護職に任せ、大名を2〜3名つけること。
  4. 後見職一橋慶喜は大阪城に入って鎮撫にあたること。大名を2〜3名つけること。(御所修復・公卿手当てなどの懸案は守護職に委任すること)
  5. 浪士組の銘々は東帰・攘夷の先鋒を勤めること
同日、浪士組に東帰を命じることになりました。(残りの意見は採用になりませんでした)

<ヒロ>
◆浪士組/新選組よくある誤解?
よく、清河八郎の草案による一連の建白に驚いた幕府が、生麦事件賠償問題に関連した英国船の横浜入港にかこつけて、浪士組を東下させることにしたといいますが、幕府側の裏づけ資料をまだみたことがありません。『伊達宗城在京日記』を見る限り、浪士の東帰願いを受けての決定だったようです。

参考:『伊達宗城在京日記』(2004.4.16)
■親兵設置
【京】文久3年3月1日、土佐勤王党間崎哲馬が清河宛に「彼一條」の尽力に感謝し、また親兵等の建白について聞きたいとする書状を送りました

「手数拝被、彼一條御尽力、於僕も不堪感荷候。親兵其他急務御建白之委曲拝聴仕度ものに御座候。水藩住谷兄(=水戸藩士住谷寅之介)も今日来訪談心事候。尚御通行之節御駕相願、御談判致度事如山御座候。草々拝復。

   三月初回     弘
清河盟兄」
(出典:『清河八郎遺著』。旧字は適宜当用漢字になおしています)

<ヒロ>
間崎の書簡からみると、清河は親兵に関する建白をこの日(以前)に行ったようです。『清河八郎』によれば、同日、長州藩士伊藤俊輔、土佐勤王党吉村寅太郎が清河八郎に親兵設置の周旋を依頼したそうです(出典不明)ので、それを受けての建白だったのでしょうか。長州藩は2月28日に親兵差出の建議を行っていました(こちら)ので、その側面支援を頼まれたということでしょうか。

間崎が、立ち寄ってくれというだけで、自分が出向く気配がありませんが、それは彼が謹慎中だからでした。前年文久2年12月に「早急に藩政改革を行おうとして、文久2年12月平井収二郎・弘瀬健太と計り、藩主の祖父山内豊資に宛てた中川宮朝彦親王の手書を得て帰国し、改革に着手しようとしたが・・・前藩主山内容堂の怒りにふれ」(『明治維新人物辞典』)たのです。間崎は平井とともに、文久3年2月25日、自首状を藩邸の監察役に差出しましたが、藩邸では、28日、最も罪が重いとして土佐に護送することを決めていました。謹慎でしたが他人との面会は可能で、水戸藩住谷寅之介や土佐勤王党の同志が来訪していました(『維新土佐勤王史』)。

この間崎及び書簡中の住谷は浪士組創設に関りの深い人物です。住谷は、文久2年夏以降、水戸に潜伏中に会合を重ねており(こちら)、清河が認めた松平春嶽への建白書を預かって江戸の山岡鉄舟・間崎哲馬に届けています(こちら)。また、幕府が浪士募集を決定した背景には前土佐藩主山内容堂の積極的発言があったといいますが、容堂に入説したのが間崎哲馬だったそうです(こちら)。両名と清河との関係は、上京後も続いていたのでした。吉村や伊藤が清河に会いにきたのも、この両名の紹介があったのかもしれませんネ?

なお、伊藤は、3月1〜3日ごろ、水戸藩急進派29人を長州藩士として京都へ連れてきたばかりでした。これらの水戸藩士は「吉成恒次郎林忠左衛門等にして概ね嘗て薩邸に投じ攘夷先鋒を請ひ客冬駒込邸より水戸に護送せられし者若しくは櫻田志士の子弟なり此輩水戸侯に従て京都に赴かんとして允されず因て桂伊藤等の縁故に因り長藩に依頼し上京せんとしたる者なり伊藤侯の直話に曰く彼等が再び江戸に出で長州邸を縁って来た所が其頃は役人抔は大概引拂て留守居番見た様な者が一人位居たろふ其れが吾輩に連て行たら宜かろうと云ふことで箱根の番所を通らなければならぬから長州人にして連れて行つたのだ當時天下の大勢は京都に集り有志の輩は皆京都に出掛くる時であり此輩も言はば攘夷黨の仲間であり水戸侯も京都に行くと云ふので京都行を望んだのだ其後京都に留つた者も江戸に帰った者もあり後には大概武田耕雲斎の仲間に加わり敦賀の露と成ったのだ」(『防長回天史 第三篇 下』:この情報は冬湖さんに教えていただきましたm(..)m)

◆浪士組/新選組よくある誤解?
清河八郎は寺田屋事件が原因で在京の尊攘派の信頼を失っており、忌避されていたというのが通説だと思うのですが、必ずしもそうではなく、一部からは頼りにされていたことがうかがえると思います。

(2003.5.5)

関連;◆開国開城:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題 ■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

前へ   次へ

4月トップ 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ