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■横浜鎖港 【京】文久3年9月14日(1863年10月26日)、朝廷は、参内した首席老中酒井忠績(雅楽頭)に対し、「(横浜鎖港交渉をすると幕府は奏したのに)8.18の政変で猶予している模様だが、叡慮に違うので早々に江戸に帰って処置するように」との命令を下しました。 酒井は去る8月18日の政変後の天機うかがいと攘夷実行の困難を奏上するため上洛していました。 同日、幕府は江戸の軍艦操練所に米蘭公使を呼び出し、横浜鎖港交渉を開始しました。 この日の会見には老中水野忠精(和泉守)・板倉勝静(周防守)・井上直清(河内守)・有馬(遠江守)・外国奉行武本甲斐守・池田修理らが列席しました。 横浜鎖港交渉にあたって、幕府は、まず、書を各国公使に送って、5月に小笠原長行が自分一人の名前で申し入れた攘夷談判の書簡(こちら)を取り戻し、罪を小笠原に負わせて、日本政府としてはそんな無法な要求はしなかったことを示し、その上で、国内の人心が折り合わず、内争がしきりに起ることを理由に、横浜の一港を閉鎖する(交易は長崎・箱館の二港に移す)談判を行おうとしたそうです。最初、書面でそのことを申し入れようとしたそうですが、それでは角が立つということで、会見をもちました。手始めに米・蘭が指名されたのは「オランダは旧交の国であり、また、アメリカは最初に条約を結んだ国で、他の国にくらべて親厚の間柄」だからといいます。(『幕末外交談』) 老中らの申し入れに対し、両公使は受け入れ難いと述べ、「国内の騒乱を鎮静することに努めないで、かえって外国に対しこのような談判を開くのは、全く政府の弱力を示すもので、国辱の最大なるものである」と忠告し、もし英国公使がこのような談判を受けたらすぐに戦端を開くだろうとまで言ったそうです(『幕末外交談』)。いずれにしても、このような重大事な即答できず、本国に報せ、また英仏公使とも相談しなくてはならないと答えたそうです。(『徳川慶喜公伝』) 「攘夷強硬派」の後見職一橋慶喜は、実は、この日の交渉を屏風の陰で見守っていました。交渉が穏やかなのを訝っていたところ、老中が前もって<会見は幕府の本旨ではなく、朝廷をなだめるためやむおえず行うものである>と密報していたことがわかり、憮然とした・・・と、明治になって回想しています。(『昔夢会筆記』) 関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 」■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」■徳川慶喜日誌文久3 参考:『徳川慶喜公伝』2、『幕末外交談』2、『昔夢会筆記』(2001.10.26) ■長州家老の上京嘆願 【京】文久3年9月14日(1863年10月26日)、朝廷は長州家老根来上総に滞坂を命じました。 根来は前日13日に藩主毛利敬親の嘆願書を携えて大坂に到着していました(こちら)。留守居役乃美織江がこれを朝廷に報告したところ、根来を大坂に留まらせ、上京可否の後命を待たせるようにとの朝命が下りました。 関連■テーマ別:「長州処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史』p552(2004.12.16) |
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