6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索  HPトップ

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文久3年5月9日(1863.6.24)
【京】朝廷、海防に関する朝旨三か条を幕府に伝える
【江】後見職一橋慶喜、登城。攘夷実行を諭し、
井上清直(町奉行)・杉浦正一郎(目付)を横浜鎖港交渉委員に任命

【京】文久3年5月9日(1863年6月20日)、朝廷武家伝奏は海防に関する朝旨三カ条を幕府に達しました。

要旨は以下の通り。
  1. 大坂城は摂海咽喉の地に在るので、大藩の中から主将を選んで南海総督とすること(*大坂城代を大藩から選んで南海総督兼任にすること?→その後の慶喜の「摂海防禦指揮」につながった?)
  2. 堺は要衝の地だが、守衛の立花飛騨守(筑後柳河藩主)は国力が疲弊しており、他の大藩を交代させること
  3. 製鉄所を長崎に築造し、各藩共同で巨艦を製造すること
この朝命は、4月に激派公卿姉小路公知が大阪湾を巡視して軍艦に搭乗した際、勝海舟に入説された内容(こちら)に起因するのではないかといわれています。勝海舟本人は、同日付日記に「海軍ならびに器械製作の議、他年邦家の為に努力を尽せしに、一朝姉小路殿に説解せしに、公、英明之見を以て、終に奏聞を経られしによりけむ、今日此御沙汰を拝聴す。我が微衷、天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」と感激を記しています。

関連:■テーマ別「朔平門外の変(姉小路公知暗殺事件)
参考:『勝海舟全集1』・『七年史一』(2001.6.20, 2004.6.21)*『七年史』の日付は5月5日。

【京】文久3年5月9日、東帰したばかりの後見職一橋慶喜は登城して攘夷決行を諭し、井上清直(当時町奉行)・杉浦正一郎(当時目付)を横浜鎖港交渉委員に任命しました。

この夜、慶喜は井上と杉浦を密に召しだして、<交渉は過激になってはいけない。横浜に着いたら両人とも外国船に乗り込むように。ただし、このことは他言せぬよう>と命じたそうです。両名は<故なく外国船に乗り込めば重職の身で出奔したと言われるのも口惜しく、仰せではありますがどういう趣意なのか承らぬ上はできません>と言うと、慶喜は<ともかくも参れ>と理由をあからさまには述べなかったそうです。そこで井上と杉浦は<水戸殿にもお伺いしてからお請けしましょう>と慶喜のもとを去り、小石川の水戸藩邸に水戸藩主徳川慶篤(慶喜の実兄)を訪ねたところ、慶篤は<両人の言い分はもっともである>と言ったので、杉浦は病と称して数日間家にこもることにしたそうです。そのうちに幕議が変わり、二人は結局横浜には向わなかったそうです。

<ヒロ>
前日の8日には老中格小笠原長行が償金を支払っていました。〜。もしかすると、すでに英国船と密約ができていて、〜。???

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