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文久2年9月11日(1862.11.2)
【江】松平春嶽に上洛随従の台命/長州藩周布政之助、春嶽に忠告/
唐津藩世子小笠原長行、老中格に/和宮称号に関する伝奏書簡が届く
【他】幕府最初の留学生、榎本武揚ら11名、長崎からオランダへ出発。

将軍上洛
【江】文久2年9月11日、政事総裁職松平春嶽に対して、将軍上洛時に随従するようにとの台命(将軍の命令)が下りました

参考:『続再夢紀事』一(2003.10.28)
関連:◆文久2年9月7日−幕府、明年2月の将軍家茂上洛を布告

改革令への反発
【江】同日夜、長州藩世子毛利定広は、藩士周布政之助・小幡彦七を越前藩邸に遣わし、改革批判の儒者のなかに、足軽・中間ら失業者を扇動して春嶽を襲撃させ、また春嶽と慶喜を離間しようとの策があることを忠告しまし

周布が応接した中根靱負に伝えたところによると

<今朝、改革令を批判する儒者らが、専ら春嶽公に責任を帰し、改革によって失業した臨時雇の足軽・中間らと謀議して、外出時に「不敬の所為」に及ぼうとし、また、謀をもって一橋公と春嶽公との間を離隔しようとするという噂を聞きました。取るに取らぬ俗論である上、儒者に何ができるかと思い、そのままにしておきましたが、その後、長門守(世子毛利定広)の御前でこのことを話すと、大いに驚かれ、万一にもそのような事があっては天下の汚点となるべき事なので、事実の有無に拘らず耳に入ったことを速やかに御内報するようにと命ぜられました>(意訳ヒロ)。

そこで、夜間に関わらず、訪問したそうです。

参考:『続再夢紀事』一(2003.10.28)
関連■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別文久2 「幕政改革問題」 「長州藩と越前藩の連携」 ■越前藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2
■小笠原長行
【江】文久2年9月11日、唐津藩世子小笠原長行が老中格に任命されました

参考:『徳川慶喜公伝』2(2003.10.28)

■和宮称号
【江】文久2年9月11日、朝廷が和宮に「和宮」の称号を使うよう要求する書簡(9月2日付)が江戸に届きました

幕府では将軍の正妻に「御台」という称号を使うのが慣例で、和宮に対しても同様にしていました。しかし、朝廷では「和宮」を使い続けていました。今回、武家伝奏坊城俊克(大納言)から老中酒井雅楽頭に宛てた書簡では、和宮は天皇の妹であり、万事先例に拘らず、和宮の称号を使うようにとの叡慮であると伝えています。

参考:『続再夢紀事』一(2003.10.28)
■幕府留学生
【江】文久2年9月11日、幕府はオランダに士官9名(以下)その他准士官2名・職人4名から成る総勢15名の留学生をオランダに派遣しました

軍艦組:内田恒次郎、榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門(貞説)、田口俊平、赤松大三郎
洋書調所:津田真一郎(真道)、西周助(周)
長崎病院:伊東玄伯、林研海

オランダへの留学生派遣は、幕府がオランダに依頼した軍艦(開陽)建造の監督も兼ねていました。榎本らが開陽を回航して帰国するのは慶応3年になります・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2003.10.28)
おすすめサイト:Voor Lichter!(榎本武揚と開陽丸に詳しいサイトさんです)

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