11月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■後見職・総裁職の上京 【江】文久3年9月12日、将軍後見職一橋慶喜に対して、翌年2月の将軍上洛に先立って、近々に上京するようにとの台命(将軍の命令)が下りました。 実は、将軍上洛が布告された9月7日の2日前、9月5日に慶喜は将軍に先立つ上京を断っていました(こちら)。また、11日には総裁職松平春嶽に上洛随従が命じられていました。、 <ヒロ> 慶喜が先発して将軍上洛の下準備をするとしても、その前に、まず懸案の破約攘夷に関する幕府の方針を確定せねばならないのは言うまでもありません。幕政改革になんとか端緒をつけた幕閣の最大アジェンダは、この後、攘夷・開国の国是決定となっていきます。 参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2003.11.3) 関連■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」「生麦事件」 ■テーマ別文久2「将軍徳川家茂上洛問題 ■徳川慶喜日誌文久2 【江】文久3年9月12日、在府の前土佐藩主山内容堂に上京を命じ、滞京中の土佐藩主山内豊範に東下を命じるよう促す沙汰(9月4日付)が、朝廷から届きました。 参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新土佐勤王史』(2003.11.3) ■公武合体派排斥 【京】文久3年9月12日、岩倉具視ら公武合体派公卿(「四奸ニ嬪」)の屋敷に、2日以内に洛中を退去せねば首を四条河原に晒すとの脅迫状が投げ込まれました。 <ヒロ> 脅迫状の文面は、2日前に中山忠光が関白近衛忠煕に対して行った主張(脅迫)(こちら)と符号しますので、おそらく、忠光に協力を求められた薩長土激派の所行ではないかと推測します。本間精一郎の暗殺への武市半平太の関与、忠光からの天誅協力依頼等については包み隠さず(笑?)記している『維新土佐勤王史』では、脅迫状については土佐勤王党との関連は示唆されていませんが・・・。(もしかして土佐以外でやったこと??) 参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新土佐勤王史』(2003.11.3) 関連■テーマ別文久2公武合体派排斥・「天誅」 |
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