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文久2年9月14日(1862.11.5)
【江】兵庫開港期限に関する沙汰書が届く
【江】周布政之助ら、越前藩に反改革派の動き・京都の攘夷確定・
横井小楠への反発等を告げる
【水】水戸藩、武田耕雲斎らの家老復職を決定

■越前藩と長州藩
【江】文久2年9月14日、長州藩士周布政之助・佐久間佐兵衛が越前藩邸を訪問し、反改革派儒者の動きや攘夷確定等の京都情勢を告げました

周布は、11日、反改革=反春嶽の儒者のなかに、足軽・中間ら失業者を扇動して春嶽を襲撃させ、また春嶽と慶喜を離間しようとの策があることを忠告していました(こちら)。その後、首謀者が安井息軒(文久三博士の一人。のち昌平黌教授)であると聞いた為、激派の書生を派遣し、改革を非難するとは何事か、どこまでも非難するのであれば聞き流してはおかないと言わせたそうです。安井は大いに辟易し、この日の朝、書面をもって、以後、政治上の可否は口外しないと伝えてきたそうです。

周布によれば、学者から非難が起る理由は、江戸には高名な学者が多いのに、「辺阪の肥後より横井如き田舎学者を呼び登せて大政改革の議に吻を容れさせらるるが不平の根本」のようだ述べました。その上で、小楠は江戸の学者のみならず京都においても評判が芳しくないので、上洛の際、もし連れていけば、島田左近のような目にあうかもしれず、国許に遣わしてはどうかと忠告しました。

また、京都から11日に到着したばかりの佐久間は、朝議は破約攘夷で決まった(こちら)等の最新情勢を伝えました。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2(2003.11.5)
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【江】文久2年9月14日、兵庫開港を不可とする沙汰書が幕府に届きました

■水戸藩
【江】文久2年9月14日、水戸藩は尊攘改革派三家老(武田耕雲斎・大場一真斎・岡田徳至)の家老(執政)復職を決定しました。

武田らは尊攘改革派(斉昭派)の家老で、安政の大獄時に隠居を命じられました。水戸藩では、万延元年(1860年)、斉昭の死後、盛り上がった尊攘激派の運動を抑えるため、彼らを一度、復職させました。しかし、翌文久元年に激派による東禅寺の英国公使館襲撃事件が起り、彼らは責任を負って謹慎に処せられていました。

参考:、『徳川慶喜公伝』2(2003.11.5)
関連:◆文久2年9月9日−【江】幕府、水戸藩主徳川慶篤に武田耕雲斎・大場一真斎の家老復職を勧告幕末水戸藩小史


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