11月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■容保の上京 【江】文久2年9月17日、京都守護職・会津藩主松平容保は幕府に対して、公武合体のため、三港外閉鎖、無断条約の改正、来春の将軍上洛時の天皇に諮った上での国是確定(上洛前には諸藩に意見聴取)、を柱とする建白書を提出しました。また、藩内に向けては、上京後、穏健策で望む方針を達しました。 建白書のポイントは以下の通り。
同日、会津藩士小室金吾が越前藩邸を訪問して、上記建白書の写しを差し出しました(春嶽が登城しなかったため)。 <ヒロ> ●京都守護の方針 閏8月1日に守護職を拝命した松平容保はすぐには江戸を出立せず、 幕府の内命もありまず家臣(田中土佐(家老)、野村左兵衛、外島機兵衛、小室金吾、柴太一郎、川原善左衛門、宗像真太郎、大庭恭平ら)を先遣隊として京都に派遣し、在任準備とともに京都の情勢を探らせていました。この頃、京都においては、破約攘夷論が盛んでした。会津藩では、公武一和のためには天皇の攘夷の意思を尊重することが肝要だと判断しました。しかし、開港の利点は認識しており、また完全な破約(鎖国)攘夷は実行が難しいので、とりあえず開港ずみの三港(長崎・箱館・下田)以外の通商は拒否し、時機をまって天皇をゆっくり説得するしかないと考えたそうです。 ●提出のタイミング 実は、幕府は、前日には、幕府は開国上奏でまとまっており(こちら)、その翌日に、容保は幕府の方針と異なる建白をしたことになります。偶々、容保の建白書提出がこの日になったのか、開国上奏が明らかになったので慌てて建白したのかは、手持ちの資料からはよくわかりません。 ●幕府の反応 旧会津藩士の記した『七年史』によれば、「幕府は専ら開港の主義なれば、此書を呈上せらるるに及んで、或は固陋とし、或は時事に通ぜずとし、議論區々にして決するところなし」でした。そして、容保が何度も説明した結果、建白は採用されたことになっています(『京都守護職始末』では採納されたが実行されなかったとされています)。しかし、これはちょっと違うのではと思います。 会津のこの建白は、国是決定に関わる幕閣・春嶽・慶喜の間で、真剣に議論された様子がないのです。たとえば『続再夢紀事』では、この日に建白書を小室金吾がもってきたことは記していますが、写しを掲載することもなく、その内容について春嶽その他がどういう反応をしたかにも触れていません。あえて触れるほどの反応がなかったのではないでしょうか。老中板倉勝静・後見職一橋慶喜が建白書に全く感銘を受けていない様子については、後日の「今日」(こちら)で・・・。(わたしには、その後の会津藩と春嶽・慶喜・幕閣(板倉)との確執は、このへんから始まっている気がします。ある程度「今日」が進んでから、徒然か覚書にまとめたいと思っています)。 ●朝廷/尊攘急進派の反応 容保の三港外閉鎖の建白書は朝廷の受けはよかったといいます。尊攘急進派公卿・三条実美が会津藩士から提出された建白書を孝明天皇にみせたところ、天皇は<これまでの建白書には、過激にすぎるか因循にすぎるかで適切なものがなかった。この建白書は着実で中正なので実際に実行に移すべきだ>と言って手元の箱に収めたといいます。実美も同感だと建白書に好感を示したそうです。『京都守護職始末』によれば、三条実美が会津藩士柴太一郎に密に伝えた話として、孝明天皇はこの建白が中正ですぐ実行に移すべきだと非常に喜んだとされていますし。(しかも、この建白書が容保が天皇の信任を得た始まりだとされています) また、久坂玄瑞ファンの冬湖さんが教えてくださった情報によると、この三港外閉鎖の建白はなんと、その頃、京都で影響力をもっていた長州藩激派久坂の主張とすごく似ているのだそうです。もしかしたら、三港外閉鎖の提議自体が情勢を分析した上での会津のオリジナルなものではなく、先遣隊として派遣された会津藩士が京都で耳にした案の一つだった可能性もあるのではないでしょうか。いずれにせよ、幕府には相手にされなかったこの会津案が国是として採用されていれば、案外、京都にも受けがよかったかもしれません。 *** 建白書(『稽徴録』収録)の概容は次の通り↓
容保の会津藩士への諭告書(『稽徴録』収録)の概容は次の通り↓
参考:『七年史』一、『会津松平家譜』、『京都守護職始末』、『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』(2003.11.8)、『稽徴録』p59-62 (2011.4.24) 関連■テーマ別文久2「国是決定破約攘夷奉勅VS開国上奏」「容保上京」■「守護職事件簿」京都守護職の方針確立■「私的資料集」:建白書全文(仮書き下しbyヒロ)■「開国開城」総領事ハリス来日・通商開国へ |
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