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文久2年9月17日(1862.11.8)
【江】京都守護職松平容保、幕府に公武一和と三港外閉鎖を建白

■容保の上京
【江】文久2年9月17日、京都守護職・会津藩主松平容保は幕府に対して、公武合体のため、三港外閉鎖、無断条約の改正、来春の将軍上洛時の天皇に諮った上での国是確定(上洛前には諸藩に意見聴取)、を柱とする建白書を提出しました。また、藩内に向けては、上京後、穏健策で望む方針を達しました。

建白書のポイントは以下の通り。
  • 長崎・箱館・下田(横浜)の三港はこれまでどおり開港とする。(←開港の利点は認識)
  • しかし、天皇の鎖港攘夷の意思を尊重し、勅許を得ずに結んだ通商条約は改正し、相手側が条約に違反し、無礼・不敬を示した際には打払う御殿山の外国公使館建設、兵庫・大坂の開港、外国人の江戸居住・遊歩などは禁止する。(会津藩の主張は、条約改正であり、条約完全破棄による破約攘夷・鎖国攘夷を是とはしていない)
  • ただし、鎖国か開国かの国是は、将軍が翌年春上洛するまでに幕府内外・諸藩の考えを聴取し、天皇の意思をきいた上で、最終的に決定をする(←重要な決定は幕府に委任し、自らがイニシアティブをとらないというのは、その後も会津の基本姿勢のような^^;)
  • これらが許容されなければ、「自然、守護之任も立兼」るので、この度の大任(=守護職)は勤め難い。
さらに、容保は、藩内に対し、上京後の京都守護方針につき、建白書の趣旨をよく理解して、上京後は、外には「柔順を旨」として血気にはやらず、「諸藩有志」・浪士のうち、皇国のためを主張する者は同志・傍輩だと思って対応せよ、と穏健路線をとることを達しました。

同日、会津藩士小室金吾が越前藩邸を訪問して、上記建白書の写しを差し出しました(春嶽が登城しなかったため)。

<ヒロ>
●京都守護の方針
閏8月1日に守護職を拝命した松平容保はすぐには江戸を出立せず、 幕府の内命もありまず家臣(田中土佐(家老)、野村左兵衛外島機兵衛、小室金吾、柴太一郎、川原善左衛門、宗像真太郎、大庭恭平ら)を先遣隊として京都に派遣し、在任準備とともに京都の情勢を探らせていました。この頃、京都においては、破約攘夷論が盛んでした。会津藩では、公武一和のためには天皇の攘夷の意思を尊重することが肝要だと判断しました。しかし、開港の利点は認識しており、また完全な破約(鎖国)攘夷は実行が難しいので、とりあえず開港ずみの三港(長崎・箱館・下田)以外の通商は拒否し、時機をまって天皇をゆっくり説得するしかないと考えたそうです。

●提出のタイミング
実は、幕府は、前日には、幕府は開国上奏でまとまっており(こちら)、その翌日に、容保は幕府の方針と異なる建白をしたことになります。偶々、容保の建白書提出がこの日になったのか、開国上奏が明らかになったので慌てて建白したのかは、手持ちの資料からはよくわかりません。

●幕府の反応
旧会津藩士の記した『七年史』によれば、「幕府は専ら開港の主義なれば、此書を呈上せらるるに及んで、或は固陋とし、或は時事に通ぜずとし、議論區々にして決するところなし」でした。そして、容保が何度も説明した結果、建白は採用されたことになっています(『京都守護職始末』では採納されたが実行されなかったとされています)。しかし、これはちょっと違うのではと思います。

会津のこの建白は、国是決定に関わる幕閣・春嶽・慶喜の間で、真剣に議論された様子がないのです。たとえば『続再夢紀事』では、この日に建白書を小室金吾がもってきたことは記していますが、写しを掲載することもなく、その内容について春嶽その他がどういう反応をしたかにも触れていません。あえて触れるほどの反応がなかったのではないでしょうか。老中板倉勝静・後見職一橋慶喜が建白書に全く感銘を受けていない様子については、後日の「今日」(こちら)で・・・。(わたしには、その後の会津藩と春嶽・慶喜・幕閣(板倉)との確執は、このへんから始まっている気がします。ある程度「今日」が進んでから、徒然か覚書にまとめたいと思っています)。

●朝廷/尊攘急進派の反応
容保の三港外閉鎖の建白書は朝廷の受けはよかったといいます。尊攘急進派公卿・三条実美が会津藩士から提出された建白書を孝明天皇にみせたところ、天皇は<これまでの建白書には、過激にすぎるか因循にすぎるかで適切なものがなかった。この建白書は着実で中正なので実際に実行に移すべきだ>と言って手元の箱に収めたといいます。実美も同感だと建白書に好感を示したそうです。『京都守護職始末』によれば、三条実美が会津藩士柴太一郎に密に伝えた話として、孝明天皇はこの建白が中正ですぐ実行に移すべきだと非常に喜んだとされていますし。(しかも、この建白書が容保が天皇の信任を得た始まりだとされています)

また、久坂玄瑞ファンの冬湖さんが教えてくださった情報によると、この三港外閉鎖の建白はなんと、その頃、京都で影響力をもっていた長州藩激派久坂の主張とすごく似ているのだそうです。もしかしたら、三港外閉鎖の提議自体が情勢を分析した上での会津のオリジナルなものではなく、先遣隊として派遣された会津藩士が京都で耳にした案の一つだった可能性もあるのではないでしょうか。いずれにせよ、幕府には相手にされなかったこの会津案が国是として採用されていれば、案外、京都にも受けがよかったかもしれません。

***
建白書(『稽徴録』収録)の概容は次の通り↓
最近の形勢は、「外夷の跳梁日々甚」しく、上は天皇を悩まし、下は「人民不居合」となっている。これを深く心配して家来に「内外の衆議」を聞き取らせ、京都にも派遣して様子を探らせたところ、天皇は「鎖港攘夷」と「確定」しており、京中はもちろん、関西の列候・諸浪士までも、開国の説を唱える者は、頃日はいないという。
右の通り「夷人を嫌候人情」なのに、幕府は外国人を丁寧に扱うため、「人気騒々敷種々変乱出来」するのである。畢竟、戊午の無断調印を始め、兵庫・大坂開港・(外国人の)江戸居住・(外国公使館の)御殿山造館等、すべて天皇の本意ではないため、「御逆鱗」もあり、「総容の不居合」となって、「殺害等」(=いわゆる「天誅」)も起るのである。また、先年中、堀田備中守(老中堀田正睦)・間部下総守等が京都へ派遣された際には、「譎詐権謀」をもって臨んだため、幕府への信用が低下し、(天皇/朝廷が)外藩等へ依頼する結果になった。
「将軍様」には別意はなかったが、(幕府)役人の「不取計」から、公武一和にはなっていない。この上、御殿山に外国公使館ができ、外国人が江戸に常住し、諸港開港となれば、天皇の怒りは言うに及ばず、列藩も動揺し、「皇国総容の居合」も悪くなり、「如何様の異変」が出来するかも計り難い。いずれにしても「叡慮」に応じ、人情に叶い、国体も立つ、「君臣御一致」の処置をとることが肝要である。(具体的には)長崎、箱館、下田(横浜)はこれまで通りとし、御殿山の外国館建設、兵庫・大阪開港、外国人の江戸居住・遊歩等は、英断をもって拒絶されたい
天皇が「専ら鎖国」なのに「三港差置」とは「叡慮」にもとるようだが、長崎は昔からの開港場である。下田開港の件は、先年、天皇も余儀なく許可している。さらに、「海外万国」が「往来互市致、各権利争う時勢」下、「皇国のみ鎖国孤立」しては、外国の事情を知ってその長所を採用することができず、「攻守」の方策も行き届かなくなる。これまで「往来互市」していたから「壮大艦巨砲」製造・「海軍」整備が可能となり、「武備充実の助け」となったのである。よって、三港はまずそのままとして、「条約制度」を「改正」し、万一、(外国が)制度を破り、「無礼不敬」があれば、「直様御打払」えば、「即攘夷の御主意」に叶って、「叡慮」も安堵し、人心も「居合」うだろう。
(幕府は)これまで、外国人の「無礼驕慢」にも「御構」がなく、自国人のみ厳しく取り締っていた。(幕府)役人は「姑息苟安」で「死を恐」れ、外国人の「跋扈」を「増長」させてきた。今回、たとえ(外国に)「委曲諭解」するとしても「実二決戦之御覚悟」をもち、交渉は、国是確立の上、適切な人材に全権委任を命じれば、臨機応変、どのようにも「処置之道」があるだろう。
これは、即ち「公武一和之所係」りであり、幕府の「盛衰」、「天下治乱の別れ目」ともなろう。さらに、自分が守護職として上京するからには、(将軍の)「御尊崇の御趣意」が立たねばならない。従って、「深く思召被成込候攘夷之叡慮」を「御遵奉」になることが専要である。ただ、「開鎖」(=国是)決定は「至極重大」なので、来春の(将軍の)上洛までに、(幕府)内外・大小名の意見を、銘々、直接にも聴取し、天皇の意見を聞いた上で、「至当の処」へ決定されたい。 さもなければ「自然守護之任も立兼候」と「昼夜苦心」し、家臣の意見も尋ねて、「決心仕候義」である。もし、(この建白書の内容が)許容されねば、「不容易此度之大任、可相勤見詰」は更になく、お詫び申し上げるほかない。篤と御賢察の上、英断されるよう願い上げる。
なお、本文の内容を英断の上は、「応接方」が至極大切である。適切な人材を身分に拘らず登用し、全権委任の上で、止むを得ぬ事情を「真実」に諭解させ、「至極誠実」に処置すれば、外国も「承服」するだろう。
『稽徴録』にはないが、『会津松平家譜』に収録されている下り)
愚意をいよいよ採用となれば、先日命じられた「武備充実之義」は「標準」が無ければ、「承平愉安之情、決戦之覚悟無之、御趣意貫徹仕候義」は取り計らいがたい。「叡慮遵奉三港外拒絶」については如何なる異変が起るか予測できない。先日御沙汰のあった武備充実の件は、即ち、このためだとの御沙汰がさらにあれば、「御改革之御趣意著相立、御国威更帳可仕義」だと存じる。
(注:口語訳+段落わけは管理人。管理人は素人なので、絶対に資料として使わないでね)

容保の会津藩士への諭告書(『稽徴録』収録)の概容は次の通り↓
叡慮を遵奉し、武備充実・国威更張して、外夷の侮りを受けず、公武合体になるよう建白もしたので、面々も、この趣旨を厚く心得て、上京後は、天皇のお膝元であり、「別て謹慎を加ひ、外ニハ柔順を旨とし内には義勇を貯ひ、血気ニ不馳、大切ニ臨従容として事を処するの挙動」が肝要である。「諸藩有志之徒其余浪士之内ニも、皇国之御為を唱ひ候者」については「、同士傍輩之思をなし、筋合を賞、応対ニも心得」よ。
ただ、国許の者たちは、急ぎ出府したが「不計も御都合」があって出立が延引になったため、この寒天下に「不自由之住居」に滞留しており、憐察致している。この先(出立まで)長くはないはずなので、よくよく「加養難苦を凌」ぎ、「諸事慎」み、「慢心」せぬようにせよ。
(注:口語訳+段落わけは管理人。管理人は素人なので、絶対に資料として使わないでね)

参考:『七年史』一、『会津松平家譜』、『京都守護職始末』、『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』(2003.11.8)、『稽徴録』p59-62 (2011.4.24)
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