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◆10/9【江】幕府、征長総督徳川慶勝・同副将松平茂昭及従軍諸藩主に、開戦の報があえれ将軍が直に進発することを告げて、進軍を促し、副将松平茂昭に九州発向を命ずる。 ◆10/10(【京】征長総督府、大目付永井尚志・目付戸川忠愛に対して、長州藩主に征長申渡しのための芸州出張を命ずる ☆京都のお天気: (嵯峨実愛日記) >第一次幕長戦へ ■総督府の動き 【京】元治元年10月11日、前尾張藩主徳川慶勝は、征長に関する軍事委任状を受領しました。 【京】同日、慶勝(征長総督府)は、征長出征諸藩に対し、11月11日の布陣を完了するよう達するとともに、慶勝が15日に下坂して軍議を開き、その後出陣することを告げました。 参考:「稿本」(綱要DB10月11日条、No56-60)(2018/8/18) 関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1第一次幕長戦 【江】元治元年10月11日、老中阿部正外が帰府し、登城しました。(綱要) (おさらい) 老中阿部は、8月30日に品川を出港し(こちら)、9月9日に着坂(こちら)。9月12日に着京。9月24日に参内し、将軍進発遅延を報告するとともに、横浜鎖港に係る外国の主張・鎖港の困難さを説いた(こちら。10月1日、朝廷は、参内した禁裏守衛総督一橋慶喜・老中阿部正外に、鎖港猶予・速やかな長州征討を命じ、将軍上坂を督促した(こちら)。阿部は10月2日に退京した。 関連:■テーマ別元治1第一次幕長戦 >御陵衛士前史 【江】元治元年10月11日頃?、東下中の新選組局長近藤勇は、幕医松本良順を訪問して、外国の事情を尋ね、「多年の疑問が氷解した」と喜んだそうです。 近藤勇は、9月9日、将軍進発御供衆の奮発促進と隊士募集のため、江戸に着いていました(こちら) 松本良順の自伝によれば、良順の家人は恐怖したそうですが、近藤は外国の事情について尋ねにきたのでした。良順は、近藤に対して、@西洋諸国は領土拡張を狙った戦争が多く、兵も軍備も整備されていることや、Aインド・中国へ進出では領土ではなく、利益を吸い上げることを目的としており、それによって国を富ませて兵を増やし、軍艦をそろえて他国を侵略しようとしていることなどを説明したそうです。近藤は大いに喜び<多年の疑いが晴れた。なお教えをたまわりたい>と言って去ったとか。そして、その3日後に、今度は診察を乞いに現れたそうです。「食物不良」で胃を悪くしていたらしく、胃薬・下剤を与えたそうです。そのとき、近藤は、明日江戸を発つことになったと言っていたそうです。 <ヒロ> 松本良順の自伝は明治35年に未定稿が配布、明治39〜明治40年に若干改訂されたものが公刊されました。当時から40年近くたってからのことなので、自伝のどこまで信頼できるのか判断しかねるのですが・・・。良順を訪ねた日付については、近藤の江戸出立が10月15日なので、11日頃のこととしました。 近藤がなぜ、良順を訪ねることになったのかは不明です。兼ねがね疑問をもっていたというのも面白いのですが、この頃、将軍進発の督促のために在府していた会津藩京都公用人の野村左兵衛/江戸会津藩邸が開国やむなしという方針に転じていた(こちら)のも関係があるのではないかと想像します。 参考:『松本順自伝・長与専斎自伝』p47-49(2000/11/10、2018/8/18) |