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☆京都のお天気:快晴 (嵯峨実愛日記) >第一次幕長戦へ ■生長総督府 【京】元治1年10月12日、征長総督徳川慶勝・同副将松平茂昭は、出陣を前に参内しました。 ■在京薩摩藩 【京】元治1年10月12日、西郷吉之助は、国許の大久保一蔵に書状を認め、幕府の長州末家への厳しい処分を拙策とし、長州人に長州人を処置させる(恭順論の吉川経幹の利用)べきだと繰り返しました。また、自身への帰国命令に従わないことへの理解を求めました。 <ヒロ> 西郷は、今回、長州は戦意がない様子なのに、幕府が長州末家の官位や屋敷を取り上げたのは「誠に拙策」であるとして、ここ最近の持論である「長人を以て長人を処置」すべきだと繰り返しています。長州藩が壊滅すれば薩摩藩にも危難が及ぶと考えている西郷は、恭順論の岩国領主・吉川経幹を利用する計画だったわけですが、幕府の処分が支族にまで及んだので、危機感を感じたものだと思います。また、薩摩藩の攻め口を(激戦の予想される)萩から変更する件については、幕府に予め申し立てては、何かと難題を押し付けられかねないので控えておき、征長総督の徳川慶勝に交渉したところ、臨機応変にといわれたそうです。また、本国への召命については、せめて長州までは出張し、そのうえで本国に戻りたいとしています。 参考:『西郷隆盛全集』一p427-431(2018/8/18) 関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1) (西郷吉之助(隆盛)の報じた幕長戦)
>御陵衛士前史 ■上京へ 【江】これより先、深川で北辰一刀流道場を開く伊東甲子太郎は、寄り弟子藤堂平助の誘いで、東下中の新選組局長の近藤勇と会談し、同志と相談した上で、上京することを決めました。
※野村左兵衛は、もう、おなじみ、将軍上洛周旋に東下中の京都公用人ですが、実は、元治1年には軍事奉行と公用人を兼任していた時期があります。加納の記憶は意外と確かだったのかもと思う次第。 <ヒロ> 近藤勇は、9月9日、将軍進発御供衆の奮発促進と隊士募集のため、江戸に着いていました(こちら)。ちょうど、攘夷を本旨とした天狗党の筑波挙兵が藩内党争に変質し、それをきらって攘夷実行のため横浜に向った天狗党応援の諸士(伊東の友人芳野桜陰ら)が捕縛され、横浜攘夷も不可能になった頃になります。 【江】元治元年10月12日?、東下中の京都公用人の野村左兵衛は、やはり東下中の新選組局長近藤勇の隊士募集に応じた伊東甲子太郎等22名の人別を藩庁に届け、京都に知らせるよう要請しました。 (江戸家老上田一学書簡のてきとう訳)
<ヒロ> 別紙5通のうち、2通(野村左兵衛が差し出した一の印、二の印)しか記録に残っていないようです。一の印は近藤が新規加入者として会津藩に届け出た者、二の印は、その他として野村が届け出た者のようです。10月15日に江戸を出立した24名の姓名を記した日野の井上家文書と比較すると、一の印は全員上京、二の印は10名中8名(青字)が上京したことになります。青字の彼らは(途中で上京をあきらめた大村安宅を除いて)後に全員が御陵衛士となった伊東甲子太郎の同志たちです。やはり、近藤の届け出である一の印が正式な入隊者で、二の印は野村が直接把握していた入隊希望者なのでしょうか。後年、加納は、江戸出立前に会津藩邸に行って野村に挨拶したと回想しているので、入隊にあたって後の御陵衛士と野村と接点があったことがうかがえます。 考えてみれば、伊東は、幹部として新選組に入隊することが想定されていたので、入隊を決める前に、新選組の上司・会津藩の京都公用人である野村に直接話を聞いても不思議ではないですよね。元々諸生クラスを登用するような人で、伊東らに会っても腹蔵なく話をしそうです。野村は、8月に将軍進発の周旋に東下してきたわけですが、江戸で情報を収集するうちに、開国やむなし&諸侯会議による国是の決定を京都に進言したり(こちら)、(幕府が京都会津藩の使者を忌避しているので)諸藩の「天下の公論」に周旋を任せる方針に転じたりと(こちら)、柔軟なところがある人物です。諸侯会議や公議公論は、後に御陵衛士として伊東らが目指したものと親和性があるし、案外、野村との会談が入隊(希望)の決め手になったのかも・・・と想像したりもします(ちなみに、御陵衛士分離前にも野村と伊東が会談しています)。 参考:「会津藩庁記録」(綱要DB)(2000.11.11、2018/8/19) 関連:御陵衛士館(「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」) |