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元治元年10月12日(1864年11月11日)
【京】征長総督徳川慶勝・同副将松平茂昭参内
【京】西郷吉之助、国許の大久保一蔵に書を認め、幕府の長州末家への厳しい処分を拙策とし
長州人に長州人を処置させる(恭順論の吉川経幹の利用)べきだと繰り返す

【江】会津藩京都公用人野村左兵衛、伊東甲子太郎らの新選組入隊を藩庁に届け出る

☆京都のお天気:快晴 (嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦へ
■生長総督府
【京】元治1年10月12日、征長総督徳川慶勝・同副将松平茂昭は、出陣を前に参内しました

■在京薩摩藩
【京】元治1年10月12日、西郷吉之助は、国許の大久保一蔵に書状を認め、幕府の長州末家への厳しい処分を拙策とし、長州人に長州人を処置させる(恭順論の吉川経幹の利用)べきだと繰り返しました。また、自身への帰国命令に従わないことへの理解を求めました。

<ヒロ>
西郷は、今回、長州は戦意がない様子なのに、幕府が長州末家の官位や屋敷を取り上げたのは「誠に拙策」であるとして、ここ最近の持論である「長人を以て長人を処置」すべきだと繰り返しています。長州藩が壊滅すれば薩摩藩にも危難が及ぶと考えている西郷は、恭順論の岩国領主・吉川経幹を利用する計画だったわけですが、幕府の処分が支族にまで及んだので、危機感を感じたものだと思います。また、薩摩藩の攻め口を(激戦の予想される)萩から変更する件については、幕府に予め申し立てては、何かと難題を押し付けられかねないので控えておき、征長総督の徳川慶勝に交渉したところ、臨機応変にといわれたそうです。また、本国への召命については、せめて長州までは出張し、そのうえで本国に戻りたいとしています。

参考:『西郷隆盛全集』一p427-431(2018/8/18)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)

(西郷吉之助(隆盛)の報じた幕長戦)

・7/28【京】前越前藩主松平春嶽上京を促す(越前藩中根雪江・酒井十之丞宛)
・8/17【京】外国艦下関来襲の黒幕は幕府との意見を述べる(大久保一蔵宛)
・9/7【京】長州の追討・薩摩への後難を防ぐための「狡猾」な長州への厳しい処分(東国への国替え)の必要性、江戸幕閣による慶喜の疎外等の近情、征長副将・越前藩主松平茂昭を利用した幕府への建議、総督未定の場合の征長副将以下出陣の周旋等の方針(同上)
・9/8【京】有馬新助・海江田信義に将軍上洛周旋を指示したことなど。(同上)
・9/16【京】9月11日の勝海舟との初対面の様子。勝からきいた幕府の内情。征長後の有力諸侯による「共和政治」か「割拠」の必要性を力説。(同上)
・9/19【京】征長が決まれば自ら広島へ赴き、長州藩と支藩の離間により攻め落とすとの計略。(同上)
・10/8【京】長州藩征討・水戸藩党争の情勢・幕府の対外措置所見(薩摩藩のための長州壊滅回避の計略)(同上)
・10/12【京】幕府の長州末家への厳しい処分を拙策とし長州人に長州人を制させるべきとの持論(同上)

>御陵衛士前史
■上京へ
【江】これより先深川で北辰一刀流道場を開く伊東甲子太郎は、寄り弟子藤堂平助の誘いで、東下中の新選組局長の近藤勇と会談し、同志と相談した上で、上京することを決めました。

頃日(けいじつ)、横浜奉行堀宮内代官久保田治部右衛門は、浮浪徒が夷人館を襲撃するの風聞あるを以て、之を制するには毒を以て毒を制するにありと、過激人篠原泰之進に夷人館取締役を命ず。久保田は、其頃籏下(きか)の士なれども、旧久留米藩にして、人を過まち害し、肥後に遁れ、又熊本に於ても人を殺害し、江戸に走り、徳川家黒鍬方の株式を購求したるなり。元来柔術に長じたれば立身す。其子仙太郎(後任備前守歩兵奉行)は、元来篠原と同藩にして、別懇なり。仍て(よって)篠原をして是が長と依頼す。篠原も亦(また)時宜を計り、撰夷の功を立ん事を欲する志あるを以て、其国情を得るに幸いありと思慮して、之を承諾し、予て同盟の士、加納道之助(伊豆人後鵬雄二改)、服部武雄(赤穂藩後改三郎兵衛)、佐野七五三之助(尾州人)、大村安宅(相馬藩)等を率いて、租税場の関門を守り居たるが、不図(はからず)も筑後の残党鈴木三郎に出会し、時世の談論に及びたる末、鈴木の実兄伊東甲子太郎に面会す。

伊東甲子太郎武明(初大蔵後摂津)は常陸志築の脱藩にして、撃剣に長じ、又和学を嗜み、歌道にも心をよせ、温和にして文武を兼たる壮士なり。江戸深川に撃剣場を設け、中西登、内海次郎と称す股肱の門弟二人あり。藤田小四郎等捜夷の義兵を筑波に挙げたるを慕い居たる際、松平大炊頭頼徳(常陸宍戸)出張の時(こちら)、江戸上野山下雁鍋屋に於て、有志の浪徒六十余人応援の為集会す。伊東も同行の念にて列座したるが、久留米脱藩古松簡治(変名権藤直郷)密かに見る所ありて、別席に伊東を招き、時機逸し今回は必定敗る故に、請う君は当地に居残り、有志を後日に助けられよと懇告して、伊東兄弟、篠原、服部及び津軽藩毛内監物(変名有之助)等の壮士、爾来、懇応事に感覚を発し、今や憂国の士は京師に集り、尊擾の計画に尽力する時至れり、我等も亦上京して応分の力を国家に致さんは如何やと、甲子太郎の発言に何れも之に賛成する際に臨み、近藤勇出府して同志募集の機会に当りたれば、之れ倔竟の僥倖なりと喜悦して、近藤に面会し、其主儀を聞き、国家の安危に及び、長防の所置如何を議す。

勇元来武事一遍の士にして、文事に暗らく、伊藤の高義卓論に伏する所ありて、遂に同盟を約し、十一月(ママ)十五日、江戸を発して登京す。

出典:西村兼文「新撰組始末記」(明治22年脱稿)(『野史台維新史料叢書』三十)

・・・(横浜)攘夷も行われず、其当時は御承知の通り新徴組などは京都へ将軍家の御供をして行って帰って来、両国橋には神戸などと云う人の首を曝されると云うよううなことで、江戸市中をもなかなかさわがしくある折柄、京都より壬生浪士近藤勇と申す人、同士(ママ)三、四名にて出府致し、同士を募る為め来たということを聞き及び居る中、深川佐賀町に道場を出して居た伊藤(ママ)大蔵と云う人は、元々稽古に参り、師匠同様に致し居りましたこと故、同人より今般京都にて蛤御門抔の戦の様子等委細委敷(くわしく)聞いたが、今舟(ママ)近藤に附いて来た藤堂平助は伊東の寄り弟子なれば、彼より同士は、専ら勤王の者なり、京都へ行く気はないかと申されましたから、夫れから近藤勇氏に面会致すべしと、伊東まいり、種々面語の末、此処に居らるる秦林親氏は四十四年兄弟同様にしております、依って秦及び私へ右の次第を相談になりました所から、神奈川奉行所へ御暇願いを差し出し、伊東甲子太郎と改名して深川の居住をたたみ家族を芝三田に移し、兎も角京都へ登ることに約束を致しました。併(しかし)彼方へ参って能く事情を糺した上に、同士に成るか成らぬか、先ず以て、旅費は八人の者は自費で行くべしと噺しも決して、会津藩軍事奉行野村左兵衛と申方に会津邸で逢って別れを告げ江戸を出発致した。

出典:明治34年4月13日加納道広談(『史談会速記録』104)
野村左兵衛は、もう、おなじみ、将軍上洛周旋に東下中の京都公用人ですが、実は、元治1年には軍事奉行と公用人を兼任していた時期があります。加納の記憶は意外と確かだったのかもと思う次第。

<ヒロ>
近藤勇は、9月9日、将軍進発御供衆の奮発促進と隊士募集のため、江戸に着いていました(こちら)。ちょうど、攘夷を本旨とした天狗党の筑波挙兵が藩内党争に変質し、それをきらって攘夷実行のため横浜に向った天狗党応援の諸士(伊東の友人芳野桜陰ら)が捕縛され、横浜攘夷も不可能になった頃になります。

【江】元治元年10月12日?、東下中の京都公用人の野村左兵衛は、やはり東下中の新選組局長近藤勇の隊士募集に応じた伊東甲子太郎等22名の人別を藩庁に届け、京都に知らせるよう要請しました


(江戸家老上田一学書簡のてきとう訳)
・・・新選組局長近藤勇が、ここ元(=江戸)へ罷り下っていたところ、「新加入懇望之者」がいるので、別紙人別人品芸術等吟味の上、「今度加入之趣」を申し出たので、御届け申し上げる。もっとも京都表へ申し達す件である旨を、野村左兵衛が別紙一の印の通り申し出た。その他「望之者加入之趣」をニの印の通り申し出た。その表(=京都)の義、宜しくお取り計らいあるようにと存じる。別紙五通を進ぜる。以上。
       十月十二日                         上田一学(※江戸家老)
神保内蔵助様 一瀬直人様 内藤近之助様 西郷文吾様(※在京家老)
紙面別紙の趣を公用方へ承知せしめ、知らしめること。
  十一月十八日
一の印   人別
(略)

ニの印   人別
北辰一刀流 生国 江戸 伊東甲子太郎 三十才
神道無念流 同       三木三郎  二十八才
要心流剣法 生国 筑後 篠原秦之進 三十才
北辰一刀流 生国 川越 内海二郎 二十九才

柔術要心流 生国 佐倉 芝田小源太 二十八才
鎗術大島流 生国 伊豆 加納鷲尾
         生国 奥州 大村安宅 二十四才

北辰一刀流 生国 伊勢 浜本三郎 二十二才
同流      生国 川越 中西登 二十三才
同流      生国 尾張 佐野七五三郎 三十一才

<ヒロ>
別紙5通のうち、2通(野村左兵衛が差し出した一の印、二の印)しか記録に残っていないようです。一の印は近藤が新規加入者として会津藩に届け出た者、二の印は、その他として野村が届け出た者のようです。10月15日に江戸を出立した24名の姓名を記した日野の井上家文書と比較すると、一の印は全員上京、二の印は10名中8名(青字)が上京したことになります。青字の彼らは(途中で上京をあきらめた大村安宅を除いて)後に全員が御陵衛士となった伊東甲子太郎の同志たちです。やはり、近藤の届け出である一の印が正式な入隊者で、二の印は野村が直接把握していた入隊希望者なのでしょうか。後年、加納は、江戸出立前に会津藩邸に行って野村に挨拶したと回想しているので、入隊にあたって後の御陵衛士と野村と接点があったことがうかがえます。

考えてみれば、伊東は、幹部として新選組に入隊することが想定されていたので、入隊を決める前に、新選組の上司・会津藩の京都公用人である野村に直接話を聞いても不思議ではないですよね。元々諸生クラスを登用するような人で、伊東らに会っても腹蔵なく話をしそうです。野村は、8月に将軍進発の周旋に東下してきたわけですが、江戸で情報を収集するうちに、開国やむなし&諸侯会議による国是の決定を京都に進言したり(こちら)、(幕府が京都会津藩の使者を忌避しているので)諸藩の「天下の公論」に周旋を任せる方針に転じたりと(こちら)、柔軟なところがある人物です。諸侯会議や公議公論は、後に御陵衛士として伊東らが目指したものと親和性があるし、案外、野村との会談が入隊(希望)の決め手になったのかも・・・と想像したりもします(ちなみに、御陵衛士分離前にも野村と伊東が会談しています)。

参考:「会津藩庁記録」(綱要DB)(2000.11.11、2018/8/19)
関連:御陵衛士館(「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」)

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