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文久2年10月18日(1862.12.9)
【江】攘夷奉勅:山内容堂の入説で、幕府、奉勅を内定

■破約攘夷奉勅VS開国上奏
【江】文久2年10月18日、前土佐藩主山内容堂は大目付岡部長常に対し、が攘夷を請けねば「攘将軍」になりかねないと攘夷奉勅を入説し、幕府は開国上奏から、攘夷奉勅へと動きました。


勅使優待問題にけりをつけた山内容堂は、攘夷奉勅問題にとりかかり、大目付岡部長常(駿河守、長崎奉行・外国奉行を歴任)に攘夷奉勅を入説しました。

岡部が春嶽に語ったところによると、容堂の趣意はこうでした。

<今回の勅使は大原左衛門督(重徳)の時と事情が違う。万一開国の趣意を申し出れば勅使は議論もせずに即帰京するかもしれない。そうなっては関西の諸国はたちまち大乱になる形勢である。もし幕府が攘夷を奉勅しないのであれば(開国の国是を上奏するのであれば)、予めこの事態に備える覚悟が必要である。また、攘夷の勅旨とはいっても、決して天保期の無二念打払い令のような無謀の攘夷ではない。元来、攘夷は征夷(大将軍)府の当然の職掌である。もし請けなければ、「攘夷」の朝議は変じて「攘将軍」となりかねない容易ならぬ時勢であるので、よくよく考え、老中らへも相談するように>。

脅迫ともいえる入説を受けて、岡部は早速登城して老中らに説明しました。幕議は、既に慶喜の上京&開国上奏で決まっていたため(こちら)、老中らは非常に当惑し、とにかく奉勅せねばなるまいと、開国を主唱していた一橋慶喜にその旨を伝えたそうです。慶喜も当惑し、やはり奉勅する以外ないだろうと言ったそうですが、総裁職の春嶽が登城停止中であり、決定にはいたりませんでした。

<ヒロ>
登城スト中の春嶽に代わって、容堂が大活躍(?!)です。自身は開国論でした。しかし、攘夷勅使東下の仕掛け人は土佐勤王党であり、しかも藩主豊範が護衛を名目に東下してきますので、攘夷奉勅を説得せざるを得なかったのです。その旨の朝命も下りていました。

参考>『続再夢紀事』一
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