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元治1年11月21日(1864.12.19)
 【芸州】征長総督徳川慶勝、筑前藩に対し、薩摩藩、肥後藩、佐賀藩、久留米とともに
五卿を受け取り、一人ずつ監護するよう命じる
【芸州】西郷吉之助、小松帯刀に書を送り、征長総督府に対し、
筑前藩による五卿移転周旋の指示を出すよう周旋したことを報じる

☆京都のお天気: (嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦
■五卿移転問題
〇総督府の動き
【芸州】元治元年11月21日、征長総督府は、筑前藩に対し、薩摩藩、肥後藩、佐賀藩、久留米に五卿を一人ずつ預けるので、長州から受け取り、引き渡しを取り計らうこと、受け取りが難航する場合は兵力をもって臨機の処置を許可することを申し渡しました。

<ヒロ>
この裏には、やはり(?)、西郷吉之助の周旋があったようです。

〇薩摩藩の入説
【芸州】元治元年11月21日、西郷吉之助は、在京家老小松帯刀に書を送り、筑前藩士の依頼により、征長総督府が、筑前藩に五卿移転周旋に関する指示を出すよう周旋したことなどを報じました。
(吉之助書簡のてきとう訳)
i一昨日(11月19日)夕方、岩国の香川諒(吉川家家臣)が参り、<三条ら五卿が、激党六百人余りを伴って長府へ動座し、萩から追々鎮静の者も差し出したが、承引しない。詳細は分からないが、長府を巻き込み、萩の藩庁を動かして、岩国を討ち滅ぼすとの風説である。この上はとても吉川の手には及ばず、干戈を動かさぬではすまぬ時機に及んだ>と申した。そうしたところ、筑前藩士喜多岡勇平が来合せ、<今一度公卿方へ説得の周旋をしたい。(総督府から)表だって藩候に命じられれば、精々尽力する>という。人事の限りを尽くし、そのうえ承引なければ(開戦も)仕方ないので、総督へ細々申し込んだところ、今日、別紙のとおり、御達しになった。(略)

参考:『西郷隆盛全集』一p453-455
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)(2018/8/27, 9/9)

(西郷吉之助(隆盛)の報じた幕長戦)

・7/28【京】前越前藩主松平春嶽上京を促す(越前藩中根雪江・酒井十之丞宛)
・8/17【京】外国艦下関来襲の黒幕は幕府との意見を述べる(大久保一蔵宛)
・9/7【京】長州の追討・薩摩への後難を防ぐための「狡猾」な長州への厳しい処分(東国への国替え)の必要性、江戸幕閣による慶喜の疎外等の近情、征長副将・越前藩主松平茂昭を利用した幕府への建議、総督未定の場合の征長副将以下出陣の周旋等の方針(同上)
・9/8【京】有馬新助・海江田信義に将軍上洛周旋を指示したことなど。(同上)
・9/16【京】9月11日の勝海舟との初対面の様子。勝からきいた幕府の内情。征長後の有力諸侯による「共和政治」か「割拠」の必要性を力説。(同上)
・9/19【京】征長が決まれば自ら広島へ赴き、長州藩と支藩の離間により攻め落とすとの計略。(同上)
・10/8【京】長州藩征討・水戸藩党争の情勢・幕府の対外措置所見(薩摩藩のための長州壊滅回避の計略)(同上)
10/12【京】幕府の長州末家への厳しい処分を拙策とし長州人に長州人を制させるべきとの持論(同上)
・11/19【芸州】征長総督府への長州処分6か条(藩主父子落飾隠居、10万石減封、山口新城焼却、吉川家の大名取立等)と撤兵条件の速やかな通達(江戸に相談なし)の入説、その通りになったこと等。(小松帯刀宛)
・11/21【芸州】総督府に対し、筑前藩による五卿移転周旋の指示を出すよう周旋したこと等。(同上)

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