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文久2年10月25日(1862.12.16):
【江】攘夷奉勅:長州藩世子毛利定広・側用取次大久保忠寛(一翁)、春嶽、後見職一橋慶喜に登城を勧告

■攘夷奉勅問題(慶喜の登城スト)
【江】文久2年10月25日、幕府の攘夷奉勅方針に不満をもって登城停止中の後見職一橋慶喜(こちら)を翻意させようと、政事総裁職松平春嶽、側用取次大久保一翁(忠寛)、長州藩世子毛利定広が説得を試みましたが、功を奏しませんでした

政事総裁職松平春嶽は、書簡を出して登城を勧めましたが、<強情だと思うだろうが、(幕議で決まった破約攘夷は)全く見込みのないことなので、登城はできない>という返事でした。

長州藩世子松平定広も書簡で登城を勧めましたが、気鬱の病だと返答したそうです(さすがに長州藩には本音は述べない模様)。

窮した春嶽は、側用取次大久保忠寛(大久保一翁)に言い含め、慶喜を説得させました。どのような内容かは伝わっていないようですが、『徳川慶喜公伝』では「将軍家(家茂)の憂慮は言語に尽し難い。此上出仕せねば或は病に障るかもしれない(家茂はこのとき麻疹にかかっていた)」と説かせたようだと推測しています。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2
関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 ■テーマ別文久2「第2の勅使(攘夷督促&親兵設置)東下」「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏

■大久保一翁&岡部長常更迭
【江】文久2年10月25日、老中格小笠原長行(唐津藩世子)が、首席老中板倉勝静に対して、「君側の奸」側用取次大久保忠寛及び大目付岡部長常の罷免、及び久世広周・安藤信正・間部の三老中の追罰を求めました

『維新史』によれば、9月11日に若年寄から老中格に昇格した小笠原はかねてより、久世・安藤・間部の追罰と井伊派の有司の処罰を主唱していました。しかし、幕議がなかなか動かきませんでした。小笠原は、これを言路が閉塞して将軍の耳に達しないせいだとし、「先づ君側に在って威柄を弄する者を排除しようと決心するに至った」そうです。その排除対象となったのが忠寛と長常でした。板倉は家臣山田方谷を小笠原に遣わし、忠寛らの処分は急には行えないと説明させたそうで、小笠原はこれに納得したそうです。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2
関連:「今日」10月23日:容堂、忠寛の「大開国論」に感服/左遷(1)忠寛・岡部長常・小栗忠順に「天誅」の風聞  10月25日:左遷(2)老中格小笠原長行、忠寛・長常の罷免と久世らの追罰を板倉に迫る 11月3日:左遷(3)春嶽、慶喜の大久保忠寛転出意見に反対 11月4日:左遷(4)幕府、春嶽の反対を押し切り、忠寛の講武所奉行転出を決定

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