2月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久4/元治元年1月9日(1864年2月16日)
【京】参豫諸侯会合:容保の征長副将、春嶽の守護職、久光・容堂の幕政参画を議定。
慶喜の後見職辞任・守衛総督就任が議論される
【京】前勧修寺門主の伏見宮家復帰・還俗を許す勅、大原重徳を許す特旨

■参豫諸侯の会合(+久光)
【京】文久4年1月9日(1864年2月16日)夕、前越前藩主松平春嶽宿舎に他の朝議参豫諸侯(後見職一橋慶喜、会津藩主松平容保、前宇和島藩主伊達宗城)、薩摩藩国父島津久光、が集まりました。(参豫辞退の意思をもつ前土佐藩主山内容堂は欠席)。この日は、越前藩主松平茂昭も同席しました。

◇容保の征長副将、春嶽の守護職、久光の幕政参画
席上、慶喜の発議により、(1)容保を征長副将とすること、(2)容保にかわって春嶽を守護職とすること、(3)久光を幕議に参画させること、及び(4)外様藩を征長軍には加えないこと、の四点について意見が交換されました。(1)及び(2)については特に異論がでなかったようです。(3)については、久光が幕議に参画しないとはいわないが、そのため滞京が長くなると「甚だ迷惑」だとコメントし、(4)については、薩摩藩も加えてほしいとの意向を示しました。また、(4)については、慶喜が、外様藩を加えずとはいうものの、因幡藩・備前藩(いずれも現藩主が9代水戸藩主徳川斉昭の子で、慶喜の実の兄弟)などは、やはり加えたいものだ、と言ったそうです。(『続再夢紀事』)

議論の結果、4項目については以下のような結論になりました。
議題 結論
(1) 容保の征長副将 容保を副将とする(+紀州藩主徳川茂承を将軍名代とする)
(2) 春嶽の守護職 春嶽を守護職とする
(3) 久光の幕議参画 久光・容堂の幕議への参加が命じられるべきである
(4) 外様藩の征長軍参加是非 征長軍に薩摩・加賀・肥後・因幡・備前・久留米・柳河(以上外様)及び小倉・中津(以上譜代)の諸藩を加える

ちなみに征長軍の布陣((1)+(4))は以下のようになります。
将軍名代 紀州藩主徳川茂承
副将 会津藩主松平容保
加勢 薩摩・加賀・肥後・因幡・備前・小倉・中津・久留米・柳河の諸藩

(『伊達宗城在京日記』)

<ヒロ>
久光は以前から守護職就任を望んでいますから、自身の滞京が長くなると「甚だ迷惑」というこの場のコメントは出席の諸侯(特に会津藩)向けのポーズのような気がします!(勘繰りすぎ?)

◇慶喜の(後見職辞任&)守衛総督就任
また、慶喜が(後見職を辞して)「御守衛総督」として長期間滞京すべきとの発議も行われました(この件については、事前に慶喜サイドから越前藩に周旋の依頼がありましたので、発言者は春嶽だと思われます)。しかし、慶喜自身は<長期間滞京しては江戸の幕政がおろそかになる。現在の政体では天下は服さないだろう(慶喜による幕政改革が必要である)。公武一和を徹底のうえ、速やかに東下して幕政を補佐すべきである>と反対意見を述べ、これに対して久光は<現在の形勢では、親藩で京都を固めることが肝要であり、一橋殿は守衛総督を辞避されるべきではない>と述べるなど、衆議が一致しませんでした

<ヒロ>
そもそも、慶喜の守衛総督就任案は、越前藩との事前打ち合わせ段階で、慶喜サイドから出たものでした。春嶽が守護職となれば、慶喜が後見職を辞して京都守衛・公武一和に専心し、万事春嶽と相談して政務を行ってはどうかとの考えから出た意見だったのです。ただし、他の諸侯にもし不平の色があれば、強いて主張をするつもりはないとも伝えていました。

席上、慶喜が、守衛総督就任に消極意見を示した理由は不明です。もしかすると、誰か(消去法で容保か宗城になりますが)が「不平の色」を示したのかもしれません。あるいは、大坂に上陸した将軍及び江戸の幕閣の手前、自分が総督就任に積極的である印象を与えることを避けたかったのでしょうか?

***
参考:慶喜サイドと越前藩との事前打ち合わせの概容(『続再夢紀事』)。

前夜、一橋家の平岡円四郎・酒井十之丞から、越前藩の中根雪江・酒井十之丞から内談したいので、明朝そちらにうかがいたいとの連絡がありましたが、中根らは慶喜に謁見して陳述した用件があったため、慶喜邸を訪ねることにしました。

◇1 慶喜の内意
この日、謁見を前に、平岡・酒井は、慶喜の内意として、将軍が上洛して公武一和が成れば、まず長州処分をすべきだが、会津藩が主張する将軍親征は難しいだろうということを両名に伝えました。また、先だっての諸侯会合(いつ誰が参加した会合なのか不明。探求中)での以下議論((1)まず朝議で「必討」を決する、(2)紀州候を将軍名代とし、副将に容保を置く、(3)朝議を「必討」とした上で、平和的手段も衆議によって検討するが、長州の服罪は必要である、(4)開国・鎖国については、「十二分の御合体」になれば、朝廷説得も容易であろう)は、はもっともで同意だとも伝えられました。

今般、将軍が上洛されて「公武の御一和御整熟」の上は、第一に毛利家の暴挙に係る事件を処分されるべきである。この処分が、もし適切でなければ、最早徳川家の衰運を挽回する期はないだろう。この上もなく大切な時期だが、会津藩はこの際外藩の力を借りずに将軍が親征されるべきだと申し立てている。中納言殿は、幕府の体態をみるに親征となることは難しいだろうとのお考えである。

このほど、諸侯が集会されたときの結果は次のようである。まず廟議を「必討」と決せられ、その討ち手には将軍名代として紀州候をあてればよい。もし、幼弱との懸念があれば、別に副師をおき、その任には、兵力も強く、君臣の意見も合体している会津藩に命ぜられ、その上、長州・防州近辺の諸侯に助力させれば十分であろう。また、廟議がそのように決定した上で、毛利家父子を召しだすか、此方より使者を派遣するか、平和的手段があれば、これも衆議で如何様にも計ればよい。毛利家が服罪しなければ、朝廷も御安心遊ばされず、諸侯もまた納得しないだろう。開国・鎖国の件も一大難事だが、これは、今後、(将軍が)朝旨を尊奉され、「十二分の御合体」となれば、その得失を弁ぜられることくらいは容易であろう。実に至当の評議であり、至極同意である。

<ヒロ>
先だっての諸侯会議の結果として述べられた項目のうち、この日の会議では、(2)の容保を副将とする件は発議されましたが、その他のことは話し合われたのかどうかよくかりません。記録もれの可能性もないとはいえませんが、長州処分に関する平和的手段検討の可能性、開国・鎖国問題(具体的には横浜鎖港交渉問題)の先延ばしの二点が話されなかったとすると・・・。実は、この長州処分と開国・鎖国(横浜鎖港交渉)は、参与諸侯で意見が対立し、参与会議が崩壊することになった懸案事項でした。この日の会合が紛糾するのを恐れて、慶喜があえて持ち出さなかったのかもしれませんね?(平和的手段検討は会津・薩摩が絶対反対だし、鎖港交渉には久光・春嶽・容堂が反対だし・・・)

◇2 慶喜臨席下の一橋用人の提案
さらに、慶喜臨席の下、平岡・酒井は、(5)容保に代わって春嶽を守護職とすること、(6)慶喜が後見職を辞任して京都守衛を担当して長く滞京するようこと、(7)薩摩藩も幕政に参画させるこを提案しました(薩摩藩の守護職担当には反対)。

毛利家の処分を、今後、前日の議に決定する時は、会津候の京都守護職は勢い、解免となるだろう。その後任には春嶽公でなくては他に相当のお方はないであろう。もっとも、春嶽公がその後任に当る事となれば、「中納言殿にハ御後見を辞し、専、京都御守衛・公武御一和の事のミを負担し、諸事、春嶽殿と共に御相談あるへく」、また、薩藩も国家のために専ら尽力する決心なので、これも御相談に加えられるべきである。この議は、ご両人はいかが思われるか。もし、ご異論がなければ、早速春嶽公に申し上げられたい。

また、薩摩藩にも守護職を担当したいとの内志があるように察せられるが、嫌疑の多い世態なので、これはたとえ内志があっても、実行しがたい。中納言殿より事情を打ち明けて三郎殿へ御相談されるはずである。

もっとも、ご両人より春嶽殿にお申し上げの上、春嶽殿がご同意であれば、今夕の御集会の席において、中納言殿より守護職のことを春嶽公へ御勧めされるので、その点をお含みおきのうえ、御応答に及ばれたい。

また、中納言殿に長く滞京して守衛するようにとのことを、春嶽公が御発言あるようお願いたしたい。しかし、この儀は、もし他の諸侯に、もし不平の色があれば、強いて主張はされないお覚悟である。これもお含み願いたい。

越前藩の両名は、御相談の趣は、重大なことなので、なお熟慮の上にこそ、お答えしたいと答えたそうです。

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別元治1「朝議参与の動き」  
参考:『徳川慶喜公伝』3(2002.2.27)、『続再夢紀事』ニp337-339、『伊達宗城在京日記』p298-299 (2007.12.19、2010.1.2)

【京】文久4年1月9日(1864年2月16日)、前勧修寺門主の伏見宮家復帰・還俗を許す勅が出されました

こちらは、1月4日の参与諸侯(慶喜・容保・春嶽・宗城)の建言(こちら)が容れられたもので、前日の朝廷参与会議の結果を受けたものになります(こちら)

参考:『維新史料綱要』五(2007.12.19)

■大赦の勅諚改竄(6)
【京】文久4年1月9日(1864年2月16日)、朝廷は、大赦の勅諚(文久2年8月)を改竄した罪で、前年の文久3年2月27日に辞官・落飾・蟄居に処した大原重徳に対し、特旨をもって、譴を赦し、復飾(還俗)を命じました。

<ヒロ>
◆勅諚改竄問題のおさらい
大原重徳(大原三位)は、文久2年5月に、幕政改革を促す勅使として、島津久光とともに東下した公卿です。 「激烈老」(「余話」参照)とも呼ばれています。のち、王政復古に尽力し、明治政府では参与・議定・集議院長官などを務めました。

さて、「勅諚改竄」とは、同年8月、長州藩世子毛利定広が幕府に伝えるようにと受け取った大赦の勅諚に薩摩藩を刺激する部分(「伏見一挙等にて死失致したる者ども」を大赦対象に含む)があり、大原が、薩長融和のため、独断で内容を改竄して長州藩に渡し、定広がそれを将軍に伝達したことを指します。大原が改竄の勅諚を長州藩に授けたことは事実ですが、大原は同時に京都(岩倉・中山・野宮)に勅諚改正を求めており、時をおかずして朝廷からは改正された勅諚が在京の長州藩主毛利敬親に下っていました。(敬親はこのとき、朝廷に対して、すでに江戸で改正された勅諚を受け取り周旋をしている旨を説明し、その勅諚を返還しています)。大原が帰京したときに処分は行われませんでしたが、文久3年2月になって、その罪をとがめられ、処分を受けていました。

このタイミングで大原が許された背景に参与諸侯(あるいは薩摩藩)の働きかけがあったのかどうか・・・何かわかったら追加修正しますね。

◇閑話休題(大原重徳父子と伊東甲子太郎・三樹三郎兄弟)
大原重徳とその息子綾小路俊実は、実は、御陵衛士の伊東甲子太郎・三樹三郎兄弟に縁のある公卿です。

大原がいつどのようにして伊東兄弟と出あったのかは不明です。(慶応2年7月頃までには典薬寮医師山科能登助と知り合っており、山科経由で大原と知り合った可能性があると思っています)が、伊東兄弟とであった大原は、彼らの「誠の志」に感じ入って、故郷の母のためにと歌を詠み、その歌を書き付けた短冊を母に送るよう言い渡しました。そのことを母に知らせる書簡(こちら@衛士館)と大原の短冊が鈴木家に残っています。

大原の息子である綾小路俊実は、慶応4年1月、三樹三郎らとともに京都を脱走し、そこで合流した人びととともに松尾山に挙兵します(赤報隊です)が、それより先、大原は自ら軍扇に「報国」と大書し、義軍の指揮にせよと三樹三郎に下賜したそうです。この軍扇も残されています。赤報隊において、三樹三郎は二番隊組長(君側)であり、綾小路の信頼が篤かったことがうかがえると思います。また、慶応4年2月に、油小路事件で亡くなった5名を、朝廷の沙汰により、歴代天皇の菩提寺である泉沸寺の塔頭戒光寺に改葬したときは、大名にも珍しいほどの盛大な葬儀だったそうですが、その費用は大原の役所が出したということです。明治政府では議定・衆議院長官を務めました。そういう関心もあって、大原は、慶応4年に向かって、これからも「今日」でフォローしていきたい公卿の一人なのです。(王政復古を推進した公卿の一人ですが、彼の考えと伊東の政治思想に接点はあったのか、なかったのか・・・などなど)。

関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別文久2年:「薩長融和の勅諚改竄」 ■薩摩藩日誌文久2  ■長州藩日誌文久2
参考:『維新史料綱要』五(2007.12.19)

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