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元治2年1月26日(1865年2月21日)
【京】前尾張藩主徳川慶勝、藩士田宮如雲を会津藩に派遣&会津藩公用人野村左兵衛を呼び
会津藩主松平容保の東下中止を説得させる

◆1/25(2.20)【京】朝廷、容保の東下は老中阿部正外の東帰後の様子次第で命ずると決める(慶応乙丑記事)

☆京都のお天気:快晴風自南方来 (嵯峨実愛日記)
>将軍上洛&有力諸侯召集問題
■尾張藩と会津藩の対立
【京】元治2年1月26日(2.21)、征長総督・前尾張藩主徳川慶勝は、会津藩主松平容保の東下をやめさせるために、藩士田宮如雲を会津藩に派遣し、また会津藩公用人野村左兵衛を呼び出しましたが、会津藩は納得しませんでした。

(おさらい)
慶勝は、長州処分を討議するための有志諸侯召集を周旋するため、藩士若井鍬吉を先発して上京させていました。鍬吉は肥後藩主弟長岡良之助と薩摩藩士西郷吉之助の書状をもって周旋し、近衛忠房・一橋慶喜・小松帯刀の賛同を得ました。ただし、二条関白・中川宮・会津藩の同意は得られないでいました(こちら)。 なお、朝廷は、1月25日、容保の東下については、先に東下した老中阿部正外の首尾次第で命ずることを決めていました。(※阿部は、前元治1年9月、横浜鎖港の困難さ及び将軍進発遅延を説明するために上京した(こちら)。10月1日に鎖港猶予・速やかな長州征討を命じられるとともに将軍上坂を督促され(こちら)、2日に退京。11日に着府)

慶勝は、1月24日の上京に際して、朝廷に対し有志諸侯召集を内願しました。ところが、会津藩は政令二途を招きかねない諸侯召集には反対で、将軍上洛周旋のための容保の東下を内願して対抗しました(こちら)

<ヒロ>
慶勝と容保は異母兄弟なのですが、尾張藩と会津藩は、征長軍への会津藩士の従軍をめぐって対立するなど、このころ、あまり関係はよくありませんでした。(征長の出陣にあたって会津藩は公用人小野権之丞の同行を望んだのですが、尾張藩は会津藩は「長ト敵仇」なのでいくら「兄弟之会津」といっても「不都合」だ拒否しました。ところが、会津藩は陣中見舞いを口実に権之丞を芸州に派遣したので、慶勝は激怒し、権之丞は追い返されるということがありました)。

参考:「政変□事」(綱要DB1月30日条No4)、『越前藩幕末維新公用日記』p129(2019/1/13)
関連:■テーマ別慶応1「有力諸侯召集問題」■テーマ別元治1 薩摩藩への嫌疑・薩摩藩の朝幕離間策

【京】元治2年1月26日(2.21)、肥後藩留守居役上田久兵衛は、六条有容父子から、前日(1月25日)に、「列藩召之儀不宣と、昨日橋、会、桑より建言」があり、また、「会公東下相止候」との情報を得ました。

<ヒロ>
慶喜が(会津・桑名と歩調をあわせて)諸藩召集反対の建言をしたという情報は、越前藩が1月19日に尾張藩から得た情報(慶喜は諸侯召集に同意こちら)と食い違っています。1月24日、会津藩・桑名藩の公用人たちが打ちそろって一橋邸を訪問していますので(こちら)、その話合いの結果、意見を変えたということでしょうか。

なお、 「容保東下相止候」は、朝廷が老中阿部正外の東帰後の様子次第で命ずると決めたことを指していると思います。

参考:上田久兵衛の「日記」『幕末京都の政局と朝廷』p244 (2019/1/20)

>老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京
【京】元治2年1月26日(2.21)、二条関白家に出入りする加賀藩士恒川新左衛門が、会津藩邸で行き会わせた越前藩士伊東友四郎に、老中本庄宗秀・阿部正外の上京は召命によるものではなく、上京の趣意は不明だが、諸政委任、「慶喜ノ事」(=江戸召喚)、兵庫開港ではあるまいかと述べました。

参考:『越前藩幕末維新公用日記』p173(2019/1/13)
関連:■テーマ別慶応1「本庄・阿部老中の率兵上京

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