◆1/20【江】老中阿部正外、江戸出立 ◆1/21【坂】慶勝、朝命によりいったん上京参内し、後に参府することを上申【江】薩藩柴山良助、勝海舟を訪ねて松前老中・立花若年寄の慶喜召喚始末について述べる ◆1/22【京】征長副将松平茂昭着京。 ☆京都のお天気:晴雲南行北風寒 (嵯峨実愛日記) 【京】元治2年1月24日(2.19)、征長総督徳川慶勝が入京しました。 (おさらい) 慶勝は、1月4日に芸州を出立し(こちら)、16日に着坂していました。慶勝は、当初、自ら上京して朝廷に報告するつもりでしたが、11日に直接参府せよとの幕命を受け取ったため(こちら)、17日に附家老成瀬正肥を上京させ、自分は「所労」を口実に大坂にどどまっていました。しかし、18日の朝命(こちら)を受けて、21日には幕府に対し「朝命難黙止、一旦入京仕、早々参府」(『七年史』)すると上申していました。また、長州処分を議論するための有志諸侯召集周旋のため、慶勝に先立って、藩士若井鍬吉が上京していました。 >将軍上洛&有力諸侯召集問題 ■尾張藩の動き 【京】元治2年1月24日(2.19)?、尾張藩は朝廷に内勅による諸侯召集を内願ました。 (おさらい) 第一次征長戦(幕長戦争)は長州の服罪によって元治1年12月末に終わり、征長総督の前尾張藩主徳川慶勝(注:会津藩主松平容保の実兄)が入京していました。慶勝は幕府への報告において処分をは委ねるとしていたものの、(肥後藩主弟長岡良之助や薩摩藩士西郷吉之助の入説もあり)征討諸藩の意見も聞くべきだと考えていました。自らの上京に先立って、藩士若井鍬吉を上京させて朝廷による有志諸侯召集を周旋させた結果、鍬吉は一橋慶喜、近衛忠房、薩摩藩(小松帯刀)の賛同を得ましたが、二条関白・中川宮・会津藩の同意を得ることはできませんでした(こちら)。 <ヒロ> これに猛反発したのが京都守護職・会津藩でした↓ ■会津藩の動き 【京】元治2年1月24日(2.19)、会津藩公用方・広沢富次郎(安任)が中川宮を訪ね、藩主松平容保が(将軍上洛を阻んでいる)「カンリ」(=奸吏)排除と朝廷「尊奉」実現のために内勅を得て東下するつもりであり、尾張藩が内勅を願い出た諸侯召集は「天下之大乱」になるため(猶予を)諫言する決意があることを伝えました。 同日、会津藩公用人小森久太郎、野村左兵衛、外島機兵衛、倉沢右兵衛が桑名藩公用人森(弥一左衛門?)、岡本某とともに一橋邸を訪れました。 (おさらい) 朝廷は、前年から征長へ将軍の進発を督促していましたが、江戸の幕閣は京都での迫害を恐れて実行しませんでした。 会津藩では、元治1年11月、征長への将軍進発を促すために容保の東下検討しましたが、慶喜に止められて取りやめていました(こちら)。 征長戦が長州恭順で終結したため、元治2年1月18日、朝廷は将軍に長州処分のために速やかに上坂するよう命じました(こちら)。ところが、1月15日、幕府は、長州処分は江戸にて行うので今回は将軍は上洛する必要がない、と上洛延期を布告していました(こちら)。 また、会津藩は、慶勝に先立って上京した尾張藩若井鍬吉による有志諸侯召集の周旋対しては異論を唱えていました(「今少シ同意ナリ兼」)(こちら)。 <ヒロ> 会津藩は、朝命に反した将軍上洛延期(実質中止)も政令ニ途を招く有志諸侯召集も朝幕の間に不協和をもたらし、幕府にとっての一大事になると考えており、藩主の容保が病をおして東下し、幕府首脳に説いて将軍上洛を実現させようと決めたのでした・・・。 会津藩・桑名藩公用人の一橋邸での用件は、広沢富次郎が中川宮に伝えた件(容保の東下と諸侯召集反対)を話し合したとみて差し支えないと思います。ちなみに、小森、野村、広沢は、前元治1年、将軍上洛促進のためにに東下しましたが、幕府首脳に忌避され、役目を果たせませんでした(関連:一会桑VS幕府首脳)。 幕府首脳は、容保を「京都方」とみなしており、江戸への連れ戻しを考えていたほどなので、容保が東下したところで考えを変えるとは思えませんが、東下が実現したらしたで、これ幸いと、なんだかんだと理由をつけて江戸に引き留めていたと思います。 参考:『朝彦親王日記』一p116、上田久兵衛の日記『幕末京都の政局と朝廷』p243(2019/1/12) ■肥後藩の動き 【京】元治2年1月24日(2.19)、肥後留守居上田久兵衛は、一橋家家臣川村恵十郎(正平)を訪ね、(慶喜の同意している)諸侯召集(「列藩召」)の動きを非難しました。 (久兵衛が親藩から召すべきだと申し入れたところ)川村は親藩に「其人なし」と述べたそうです。そこで、久兵衛は「其人」が有り過ぎるより勝ると反論したところ、川村は「感悟」したそうです。また、この日、会津藩・桑名藩の公用人が一橋邸を訪ねてきたのですが、久兵衛は別席で饗応を受けて、同席は固辞されたそうです。 <ヒロ> 有力諸侯召集の動きについては、尾張藩士若井鍬吉が、藩主弟長岡良之助(や西郷吉之助)の書状をもって周旋してまわった結果といえるのですが、この件については、鍬吉はどうも京都藩邸とは意思疎通を図っていなかったようです。(やはり久兵衛の反対を予期していたのかも・・・(こちら)。 ちなみに、川村恵十郎は、前元治1年6月に一橋用人平岡円四郎が暗殺されたとき、顔面に傷を負いながらも刺客二人を斬り斃した猛者です(こちら)。 参考:上田久兵衛の日記『幕末京都の政局と朝廷』p243、1月30日付小笠原一学書簡『肥後藩国事史料』五p670 (国会図書館DC、コマ362)(2019/1/7) 【肥】元治2年1月24日(2.19)、肥後藩主弟長岡良之助(細川護美)は島津久光に書を復し、久光が勧めた一橋慶喜への有力諸侯召集入説のための上京について、時機が熟して将軍・公卿が「真誠」に「用士の世」となれば上京するが、「かりそめ」の上京は「国力疲弊」ともなるので出来かねると回答しました。 (おさらい) 良之助は、12月28日に、島津久光に書を送り、将軍進発、有志諸侯の上京・一橋慶喜の補佐による「一和基本」の決定が急務であると論じ、そのために自ら慶喜に書状をもって幾度も入説する決意を述べましたが、それに対し、久光は、上京して尽力するよう勧めていました(こちら)。 参考:『玉里島津家史料』四p41(2019/1/7) 関連:■「テーマ別慶応1」有力諸侯召集問題 「テーマ別元治1」 薩摩藩への嫌疑・薩摩藩の朝幕離間策 |
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