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元治2年1月19日(1865年2月14日)
【京】禁裏守衛総督一橋慶喜、天狗党を引き渡しを奏上
【京】上田久兵衛、所司代にて二老中上京情報を入手【江】本庄江戸出立
【坂】征長副将松平茂昭、着坂。尾張藩士若井鍬吉、越前藩に諸侯召集周旋の首尾を語る

☆京都のお天気:快晴雲南行 (嵯峨実愛日記)
>天狗党処分
【京】元治2年1月19日(2.14)、禁裏守衛総督一橋慶喜は、朝廷に対し、入京した常野浪士(注:天狗党)追討軍総括田沼意尊に先月来加賀藩に降伏していた天狗党を引き渡し、この上の処置は関東の見込次第、田沼が取り計らうことを奏上しました

この件について、慶喜は後にこう語っています。
「あれはね、つまり攘夷とかなんとかいろいろいうけれども、その実は党派の争いなんだ。攘夷を主としてどうこうというわけではない。情実においては可哀そうなところもあるのだ。しかし何しろ幕府の方に手向かって戦争をしたのだ。そうして見るとそのかどでまったく罪なしとはいわれない。それでその時は、私の身の上がなかなか危ない身の上であった。それでどうも何分にも、武田のことをはじめ口を出すわけにいかぬ事情があったんだ。降伏したので加州はじめそれぞれへ預けて、後の御処置は関東の方で遊ばせということにして引き上げたのだ」
「江戸の方では、私と武田が気脈を通じているとこう見ているのだ。ところで此方から何かいえば、そらということになるのだ。そこでどうもよほどむずかしい。それで降伏するまでの手続きはちゃんと付けて、それぞれ加州はじめへ分けて預けた。で、田沼玄番が受け取りに来るというから、それを待って、玄番が来たところで田沼へそれを引き渡したのだ」

京都においては天狗党への同情論は強く、降伏後は、一橋家、加賀藩を始め、大原重徳などの公卿なども寛大の処置を建議しており、酷薄な処分を加えるだろうと予測される田沼への引渡しは失望をもって迎えられ、幕府への怒りの声もあがったそうです。なお、会津藩も、守護職公用人が水戸本国寺党(京都水戸藩邸の尊攘激派)の頼みを受けて処分寛大を中川宮に内願するなど、同情的だったようです。

(おさらい)
天狗党の領袖は元水戸藩家老武田耕雲斎。慶喜が文久3年に上洛したとき、是非相談相手にと水戸藩から借り受けた人物です。武田らは慶喜に嘆願する旨(慶喜の実父でもある亡き烈公の遺志を継いで攘夷を行おうとするも派閥党争で阻まれ、却って讒言を受けて幕府に追討されるようになったが、彼らの素志は鎖港攘夷で、ただ朝廷と幕府に尽くしたいと願っていることを理解してほしいこと)ありと西上していましたが、当の慶喜が追討総督として京都を出発したことを知り、慶喜に抗することはできないとその先鋒である加賀藩に降伏していました。

参考:、『徳川慶喜公伝』3、『京都守護職始末』2、『昔夢会筆記』p95-96(2000.2.14)
関連:■「開国-開城」第一次幕長戦争と水戸浪士(天狗)西上■テーマ別元治1水戸藩/天狗諸生争乱 一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>有力諸侯召集問題
【坂】元治2年1月19日(2.14)、征長副将松平茂昭が、着坂しました

同日、尾張藩士若井鍬吉が、大坂の越前本陣を訪ね、京都における有力諸侯召集周旋について、一橋慶喜・近衛忠房(右大臣)・小松帯刀は賛同したが、二条関白・中川宮・会津の同意は得られなかったと述べました


(鍬吉が越前藩本陣で語った話のてきとう訳)
「今後之天下ノ為之事」は、橋公へ鍬吉が拝謁して申上げたところ「甚御同意」だった。則ち、大島吉之助・肥後良之助様のお手紙の写しをご覧にいれたところ「甚御同意」だった。また、陽明殿(近衛忠房・内大臣)に拝謁して申し上げたところ、これまた「大御同意」だったので、小松帯刀をお呼びになりお聞かせになるよう申し上げたところ、(1月)9日に帯刀を召され、御前にて鍬吉も一緒にお聞きになられたところ「御同説」になり、「大御歓」びであった。右諸侯御召集の御趣意については、「長征之諸侯」御召集とし、肥前閑叟、肥後良之助、松平大隅守、筑前候、備前・因州等、宰相様の7人とすることで同意した(こちら)

その後、二条殿は「今少し御同意ニナリ兼」るとのことで、尹宮(=中川宮)は「近来ハ甚御因循、只々懐ノ肥ル方之御趣向」ばかりになり、会津も「今少シ同意ナリ兼」るとのこと。

(おさらい)
鍬吉は、征長軍出兵中の元治1年12月18日、越前藩本陣を訪ねて、上京して慶喜に薩摩・肥後等の有力諸侯召集を説得する決意を表明していました(こちら)

<ヒロ>
鍬吉は、慶喜を説得するにあたって長岡良之助と西郷吉之助の書状(写し)をみせたというので、両名の総督府への働きかけを受けた周旋だったのかもしれません。有力諸侯の上京はこの頃の良之助の持論で、良之助の書状の内容は宗城や久光に送ったものと同じではないかと思います(こちら)。西郷の書状については探せませんでしたが、彼も有力諸侯会議を提案したとすると、9月11日に初めて会った勝海舟の有力諸侯上京・国是決定論の影響ではないかかと思います。ちなみに、同じ日、勝は肥後藩士長谷川仁右衛門にも有力諸侯の上京を論じています(こちら)。仁右衛門も征長に出陣しているので、良之助の持論に影響している可能性もありかもです。(といっても勝の意見は小楠がもとなので、卵が先か鶏が先かみたいな話ですが)。そして、本多修理の日記をざっとみると、鍬吉、仁右衛門、吉之助の三人も接点があるのですよね。やっぱりこのへんのつながりが鍬吉の動きにつながったんでしょうか(ちゃんと読めばもっと具体的にわかるかもなので、二巡目に!)

鍬吉は、良之助の書状をもって周旋しているのに、この件で在京肥後藩にはコンタクトをとっていなさそうなのが気になります。留守居役の上田久兵衛は、仁右衛門が勝から入説された諸侯会議に懐疑的だったので、仁右衛門から「やめた方がいい」といわれたのかも??

参考:『越前藩幕末維新公用日記』p167(2019/1/5)
関連:■「テーマ別慶応1」有力諸侯召集問題 「テーマ別元治1」 薩摩藩への嫌疑・薩摩藩の朝幕離間策

>一会桑VS江戸幕府首脳(老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京)
【京】元治2年1月19日(2.14)、中川宮は、訪ねてきた会津藩士倉沢右兵衛から、老中松前崇広の帰府後の「所労」による「引籠」り、お呼び去12月の老中ニ人の召命を受けた本庄宗秀・阿部正外の上京等について知りました。

同日、肥後藩留守居上田久兵衛も所司代にて二老中上京の情報を得ています。(所司代が朝廷に正式な報告をするのは1月22日なので、まだ内々の情報の様子です)。

(おさらい)
前元治1年年末、禁裏守衛総督一橋慶喜連れ戻しのために老中松前崇広・若年寄立花種恭が相次いで率兵上京しましたが、役目を果たせないまま、1月8日、9日と相次いで帰府していました(こちら)。今回の上京も慶喜召喚が主目的で、両老中への上京の幕命は1月11日に出ていました(こちら)。ちなみに「去年冬」の召命とは、12月9日に出された勅諚のことを指しますが、これは久兵衛の献策によるものになります(こちら)

【江】元治2年1月19日(2.14)、老中本庄宗秀が兵を率いて上京の途につきました。(阿部正外は翌20日に出立)。

参考:『朝彦親王日記』一p109、上田久兵衛日記『幕末京都の政局と朝廷』p240、綱要DB (2019/1/5)
関連:■テーマ別慶応1「本庄・阿部老中の率兵上京

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