2月の「幕末京都」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久4年1月20日(1864.2.27)
【京】勅使二条城へ。将軍に右大臣宣下の内旨/
慶喜に準将軍宣下との噂が流れ、一時二条城は騒動に。

■将軍再上洛
【京】文久4年1月20日(1864年2月27日)、勅使が再び二条城を訪れ、将軍を内大臣に任ずる内旨を告げました。また、特に、御所車寄まで乗輿を許す旨を伝えました

○薩摩藩よりの知らせ
この日の朝、薩摩藩国父の島津久光が家老小松帯刀を春嶽に遣わし、前日の久光登城の際の介助の礼を述べさせるとともに、明21日の将軍参内の際に、(1)宸翰の勅書が下る見込みであること、(2)官位昇進の沙汰が下る見込みであること、(3)宮中での待遇が「特別に懇篤」となる見込みであること、を伝えさせました。

○春嶽の動き
春嶽は早速、将軍後見職一橋慶喜に書簡を送り、小松の話を知らせました。書簡の要点は以下の通り。

   (1)官位昇進:将軍参内の際、従一位右大臣の宣下がある模様である。本日、中川宮が参内して内々に奏聞する手はずになっており、前関白も承知だという。関白へは明日仰せ出されるとのこと。

(2)宸翰の勅書:朝廷から下される書付の件について、小松が内々に中川宮にきいたところ、宸翰が下されるようである。中川宮は未だに宸翰を見ていないが、本日、参内の際に必ず目を通すので心配するには及ばないとのこと。

夕七つ、春嶽は藩邸を出て、中川宮を訪ねました。小松の話の詳細を確かめるためです。中川宮の説明は以下に要約するとおり。

   (1)待遇と宸翰の勅書:将軍は、まず小御所中段に着座の上、前関白の誘引で上段に上る手はずとなっている。将軍が上段に着座すると、すぐに勅諭が下される。勅諭は宸翰であるが、、「至って御懇篤」の内容である。このとき、慶喜も上段際まで進み出、勅諭を聞くことになろう。その後、さらに将軍を常御殿に召し、天盃・天酌の予定である。

(2)官位昇進:将軍が200年来の廃典を興し、二度まで上洛したことを賞して右大臣に、また、神武天皇の山陵修補の功により、従一位に昇進させることになっている。官位については、本日夕方に勅使をもって内旨が告げられる予定である。

○二条城の騒動
春嶽は、これらを慶喜に知らせるためにに一橋邸を訪ねたところ、慶喜は自分も追って登城するので、春嶽にも登城するよう伝えました。

そこで、春嶽が二条城に登城したところ、既に勅使入城の先触れがあり、城内は上を下への大騒動だったそうです。何事なのか不分明なため、将軍も緒有司も大変心配しており、春嶽から勅使の趣意を伝え聞くと、大いに安堵したそうです。

<ヒロ>
○幕府の慶喜への不信感
『続再夢紀事』編者の追記によれば、城内が騒動になっていた理由は、慶喜に準将軍宣下があるという噂が流れたためだったそうです。慶喜に対する幕府(+将軍)の疑心暗鬼がうかがえるきがします。慶喜が春嶽を先に登城させ、中川宮の内示を説明させたのも、そういう雰囲気を感じてとっていたからかもしれませんよね。 1月15日、入京・二条城入りした将軍や総裁職・老中は、登城した慶喜から話をきくと大いに喜んだそうで、将軍は慶喜に「万事依頼」すると述べ、老中の慶喜に関する「従来の嫌疑」も「氷解」した模様だったというのですが(こちら)、そう簡単に隔意が解消したわけではなかったようです

参考:『官武通紀』、『七年史』、『続再夢紀事』三p361-366(2002.2.27、2009.4.1)
関連: ■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別元治1「将軍の再上洛(元治1)」慶喜vs幕閣

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