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元治2年2月2日(1865.2.27)
【京】会津藩公用人倉沢右兵衛、中川宮に、容保下向の間、浮説に同様せぬよう頼み入る。
【京】二条関白、中川宮の要請を受けた肥後藩留守居上田久兵衛の入説により
老中参内までの守護職松平容保の東下猶予に同意。

☆京都のお天気:陰雨終日不休夜猶沛然 (嵯峨実愛日記)
***
>老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京
【京】元治2年2月2日(2.27)、所司代は、朝廷に、老中本庄宗秀の2月5日頃の着京予定を報せました。

参考:「議奏加勢備忘」(綱要DB 2月5日条 No6)(2019/2/3)
関連:■テーマ別慶応1 本庄・阿部老中の率兵上京

>将軍上洛問題
■会津藩の容保東下運動
【京】元治2年2月2日(2.27)、容保の使いで中川宮邸にやってきた会津藩公用人倉沢右兵衛は、中川宮に、容保の下向中、朝廷にどのような浮説があっても動揺しないでほしいと特に頼みました。

また、会津藩は、前日に中川宮に貸し出していた藩士(のうち?)8名を東下の供として連れて行くので暇をとらせたいと申し入れていましたが、結局、それほどの人数を同行させぬこととしたので、これまで通り中川宮邸で使っていただきたいとも伝えました。

(おさらい)
会津藩は、1月31日、将軍上洛のための東下の暇を家老神保内蔵助を通じて内願し(こちら)、2月1日、朝廷より許可されていました(こちら)

参考:『朝彦親王日記』一p128、133(2019/2/3)

■肥後藩による容保東下反対運動
【京】元治2年2月2日(2.27)午後、中川宮は、肥後藩留守居役上田久兵衛の「容保東下不宣」の入説に同意すると、久兵衛に書状を差し添えて二条関白に遣わすこととし、久兵衛に詳しく言上するよう要請ました。

参考:『朝彦親王日記』一p133(2019/2/3)

【京】元治2年2月2日(2.27)夜、二条関白は、中川宮の要請を受けた肥後藩留守居役上田久兵衛の入説により、近日中に上京する老中本庄宗秀・阿部正外の参内まで容保東下を猶予することに同意しました。


(2月4日付肥後藩士道家角左衛門宛久兵衛書簡のてきとう要約・意訳。茶色は割注)
・・・「橋府(=慶喜)を初、会桑弥以切迫」し、尹宮様(=中川宮)、関白様も、「会公御東下之説」を御採用されたと伝承していたが(※2/1には容保東下を許可こちら)、手を下す方策もなく「扼腕切歯」していた。そうしたところ、二日に、尹宮様、関白様、六条様(=議奏六条有容(ありおき))から参殿するよういわれた。

まず(昼前に)関白様へ参上したところ、(関白家臣の)高嶋より(関白からの)「伝命之趣」をもって話しがあった。(容保東下猶予の)持論を委細言上したが、こうなってはとても挽回できず、「最早三十日内外ニて天下覆亡之変」が「到来」するだろうと「歎」息するばかりだった。

その後、(昼食後)六条様へ参上し、(容保東下猶予の)持論を言上したところ、「重畳御同意」になった。さて、此節、(東下する)会公へ朝廷より勅書(「御書取」)を下される予定であり、正三様(=議奏正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる))は、その御書面に「奸邪を被正候趣、厳重ニ御書顕」べきとの御意見だが、六条様は「重畳御不同意」で「頻御弁論」になったとの由。また、正三様は、(容保が孝明天皇に)暇乞いに参上する際に(天皇が容保に)短刀を下賜してはと提案された。しかし、六条様は、この折にそのような品を下賜しては、事がうまくいかなければ自刃(「事不然は自刎」)または「奸臣を誅」せよとの意を含むようで、支障があるのではないかと言われた。(久兵衛が)一々御尤もに存じると申上げたところ、(六条は)それではこの両件について、尹宮様へと篤と御内意を申し上げてくれと御頼みになった。このような「深謀之御熟考」に「重畳甘心(=納得)」したので、宮様へ参殿した。

(中川宮に)右の両件を申し上げたところ、もとより(六条と)「御同論」だった。(久兵衛が容保東下猶予の)持論を詳しく述べたところ、(中川宮は)「委曲御酌量」になり、殿下(=二条関白)へは申上げたのかとお尋ねになった。今日の昼に(二条家臣の)高嶋へ申し入れたことを申し上げたところ、(中川宮は)それでは決して徹底せぬ、「殿下ニは甚御切迫之場」なので、ご苦労だが、今夜これから参殿し、直々に詳しく申し上げてみるようにと懇ろに御頼みになり、(関白への)密書も御渡しになった。

何分断りがたく、深更、殿下(=二条関白)へ拝謁して、「反覆」諍い奉った。幸い、近々に閣老二名が上京するので、(二条関白から老中に)<此節、会公が列藩召集止め、関東のためを思って一途に東下を決心しているので、致し方なく下向させることに決したが、幸い両閣老が上京するので(幕府の)存念を詳しく尋ねようと待っていた。腹蔵なく存寄りを述べよ>と穏やかに筋合いを立てて仰せられ、御熟談されれることを勧めた。そうすれば、追って会公(が東下して)「御危急之場二相臨候節」にも、両閣老の手によって(幕府が朝廷や会津藩の真意を?)御了解になり、わずかに「一膂之御力」を添えることなるのではないか、(容保は)四日に御暇の御参内、六日に御立の予定だが、まず(容保の)御参内を御猶予になり、(その間に)閣老に右の通り仰せられれば、閣老が御胸中に伏せた「暴症も表発」仕るだろう―「橋公を退ケ、会桑を取替、九門之藩兵を撤スル等之策」をもって御上京との風評である―、その上で「徐二解毒剤」を投じる方策もあるのではないか等、種々建議をした・・・ところ、「大ニ御同意」になり、御懇ろの御沙汰もあった。右の次第は、決して世上には漏れぬよう、宮様、関白様に屹度申し上げおいた。・・・(略)

<ヒロ>
雨の中、久兵衛は、朝から、二条関白邸→六条邸→中川宮邸→二条関白邸とまわり、帰邸したのは夜半になりました。泥道にかなり疲れた(「泥途甚労」)そうですが、帰ると家から書状が届いており「苦を忘」れたそうです。(日記)

それにしても、昨2月1日に東下の勅許が下りたばかりなのに・・・二条関白って本当に優柔不断です。久兵衛のことは頼りにしているともいえるかもですが。久兵衛も、ナイショにと念を押したのは、この件が会津藩に漏れれば、会津藩の働きかけにより、またまた二条関白が気持ちを変えるのを恐れたんでしょうねえ。

会津藩と「両敬」を結んだばかり(こちら)の正親町三条実愛が、久兵衛の手紙によれば、結構、幕府に強硬姿勢っぽいのもちょっと驚きです。

それにしても、両老中の上京の真の意図、京都の皆さんにばればれです。

参考:『幕末京都の政局と朝廷』p98-99, p246(2019/2/3)
関連:■テーマ別慶応1 容保の東下運動

>天狗党処分
【敦賀】元治2年2月2日(2.27)、前越前藩主松平春嶽は、藩士酒井興三衛門を通して、幕府大目付黒川遠江守に、武田耕雲斎らの情状酌量・公明正大な処置を申し入れました

参考:『続再夢紀事』四p28-29(2019/2/11)
関連:■テーマ別元治2 天狗党処分と幕府への批判

【筑】大久保一蔵・吉井幸輔、筑前藩世子黒田慶賛に三条実美等の措置を依頼。西郷に書簡を記す大久保・税所、海路上京へ。(忠義公史料698)

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