☆京都のお天気:陰微雨午後晴 (嵯峨実愛日記) >将軍上洛/坂問題 ■松平容保の東下運動 【京】元治2年2月1日(2.26)、将軍上洛を促すための京都守護職会津候松平容保の暫時の東下に勅許がおりました。(会津藩は前1月31日、家老神保内蔵助を通して、東下の暇を内願していました(こちら)。 (伝奏飛鳥井雅典が伝えた朝旨のてきとう訳)
(おさらい) 第一次征長戦(幕長戦争)は長州の服罪によって元治1年12月末に終わり、征長総督の前尾張藩主徳川慶勝(注:会津藩主松平容保の実兄)が入京していました。慶勝は幕府への報告において処分をは委ねるとしていたものの、(肥後藩主弟長岡良之助や薩摩藩士西郷吉之助の入説もあり)征討諸藩の意見も聞くべきだと考えていました。自らの上京に先立って、藩士若井鍬吉を上京させて朝廷による有志諸侯召集を周旋させた結果、鍬吉は一橋慶喜、近衛忠房、薩摩藩(小松帯刀)の賛同を得ましたが、二条関白・中川宮・会津藩の同意を得ることはできませんでした(こちら)。 一方、朝廷は、征長への将軍の進発を前年から度々督促していましたが、江戸の幕閣は京都での迫害を恐れて実行しませんでした。1月18日、朝廷は、今度は、将軍に長州処分のために速やかに上坂するよう勅を下しました(こちら)。ところが、幕府は、長州処分は江戸にて行うつもりであり、将軍の上洛も必要がないとして、1月15日に、上洛延期を布告していました(こちら)。 慶勝は、1月24日に上京すると、朝廷に対して有志諸侯の召集を内願しましたが、これに猛反発したのが会津藩でした。会津藩は、朝命に反した将軍上洛延期(実質中止)も政令ニ途を招く有志諸侯召集も幕府にとっての一大事だとみなし、容保自身の東下・将軍上洛周旋を内願しました(こちら)。慶喜も、(恐らく会津藩・桑名藩の働きかけで)意見を変え、25日には会津藩・桑名藩とともに有志諸侯召集反対(「列藩召不宣」)の建言を行いました(こちら)。慶喜は、28日に慶勝から有力諸侯召集を主張されると、再度、諸侯召集論に転じました(こちら)が、29日には会津藩の説得でまたまた心が動き、尾張藩と相談した上で、会津藩に任せることこととし、二条関白に容保に東下の暇を与えるよう勧めました。また、同じ日、中川宮も二条関白に対し、尾張の論を「非」、会津の論を「是」とする意見を伝えていました(こちら) 参考:『京都守護職始末』2p147-148(2019/1/30) 関連:■テーマ別慶応1有力諸侯召集問題 容保の東下運動 >会津藩の朝廷対策 【京】元治2年2月1日(2.26)、会津藩主松平容保は、正親町三条実愛と「両敬の因」を結びました。 (正親町三条実愛の日記)
(おさらい) 1月29日には、会津藩公用人野村左兵衛が実愛を訪ねて、容保東下への助力と「両敬取扱」に相談していました(こちら) <ヒロ> 容保は、前年(文久4年)2月に関白二条斉敬とも「両敬の約」を結んでいます(こちら)。実愛に最初に「両敬」をもちかけたのがいつなのかはちょっとわかりませんが、禁門の変で、朝廷内(議奏レベル)にもっとコネクションをつくるべきだと感じたのかもですね。 いったんは流れそうになった会津藩と正親町三条家との「両敬」をとりもったのが、後に伊東甲子太郎たち御陵衛士を預かることになる山陵奉行戸田大和守だというの面白いです。実愛は山陵掛でもあるのですが、戸田大和守は、とにかく嵯峨実愛日記に頻繁に出てきて、実愛との結びつきがかなり深いとみえる人物です。そして、両敬をとりもつくらいだから、戸田大和守は会津藩とも一定の親交があったようです。京都守護職も山陵奉行も幕府の役職ではあるけれど、任命は朝廷である、という共通点もありますしね。で、会津藩で両敬を取り仕切っていたのは、公用人野村左兵衛のようであることから、戸田大和守と野村左兵衛も結びつくかも・・・・? 参考:『嵯峨実愛日記』市p144-145(2019/1/30) >幕閣の動き 【江戸】元治2年2月1日(2.26)、幕府は、姫路藩主酒井忠績に大老を命じました。(綱要DB) |
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