☆京都のお天気:晴 (朝彦親王日記) >将軍上洛/坂問題 ■松平容保の東下運動 【京】元治2年1月30日(2.25)、京都守護職松平容保は、家老神保内蔵助を以て、朝廷に、将軍上洛周旋のための東下の暇を願い出ました。 <ヒロ> 前1月29日、禁裏守衛総督一橋慶喜と前尾張藩主徳川慶勝が会津藩に任せると決めた(根負けした?)のを受けてのことだと思います。 (おさらい) 第一次征長戦(幕長戦争)は長州の服罪によって元治1年12月末に終わり、征長総督の前尾張藩主徳川慶勝(注:会津藩主松平容保の実兄)が入京していました。慶勝は幕府への報告において処分をは委ねるとしていたものの、(肥後藩主弟長岡良之助や薩摩藩士西郷吉之助の入説もあり)征討諸藩の意見も聞くべきだと考えていました。自らの上京に先立って、藩士若井鍬吉を上京させて朝廷による有志諸侯召集を周旋させた結果、鍬吉は一橋慶喜、近衛忠房、薩摩藩(小松帯刀)の賛同を得ましたが、二条関白・中川宮・会津藩の同意を得ることはできませんでした(こちら)。 一方、朝廷は、征長への将軍の進発を前年から度々督促していましたが、江戸の幕閣は京都での迫害を恐れて実行しませんでした。1月18日、朝廷は、今度は、将軍に長州処分のために速やかに上坂するよう勅を下しました(こちら)。ところが、幕府は、長州処分は江戸にて行うつもりであり、将軍の上洛も必要がないとして、1月15日に、上洛延期を布告していました(こちら)。 慶勝は、1月24日に上京すると、朝廷に対して有志諸侯の召集を内願しましたが、これに猛反発したのが会津藩でした。会津藩は、朝命に反した将軍上洛延期(実質中止)も政令ニ途を招く有志諸侯召集も幕府にとっての一大事だとみなし、容保自身の東下・将軍上洛周旋を内願しました(こちら)。慶喜も、(恐らく会津藩・桑名藩の働きかけで)意見を変え、25日には会津藩・桑名藩とともに有志諸侯召集反対(「列藩召不宣」)の建言を行いました(こちら)。慶喜は、28日に慶勝から有力諸侯召集を主張されると、再度、諸侯召集論に転じました(こちら)が、29日には会津藩の説得でまたまた心が動き、尾張藩と相談した上で、会津藩に任せることこととし、二条関白に容保に東下の暇を与えるよう勧めました。また、同じ日、中川宮も二条関白に対し、尾張の論を「非」、会津の論を「是」とする意見を伝えていました(こちら) 参考:『朝彦親王日記』一p126-128、「野宮定功手記」(綱要DB1月30日条No12) (2019/1/28) ■肥後藩の容保東下反対運動 【京】元治2年1月30日(2.25)午前、肥後藩留守居上田久兵衛は、藩士佐久間角助とともに一橋慶喜を訪ねて、(容保東下反対について)委曲言上しました。 慶喜は「一々御同意」したものの、容保を止めることは叶わないだろうと述べました。しかし、肥後藩がせっかくそのように心配しているので、「尚一応熟考」しようとも述べたそうです。 参考:上田久兵衛の「日記」『幕末京都の政局と朝廷』p245(2019/2/2) >尾張藩の有志諸侯召集運動 【京】元治2年1月30日(2.25)、有志諸侯召集周旋に走り回っていた尾張藩士若井鍬吉が、越前藩邸を訪ね、尾張藩が有志諸侯召集を断念した経緯を伝えました。(※鍬吉が越前藩士毛内鹿之助に話した内容は◆1/28、◆1/29を参照)。 <ヒロ> ちなみに鍬吉は、容保の東下について、「会津ノ今度参府ノ儀ハ、不審也。如此江戸ノ塞リタルヲ見テ、参府シ周旋セント云ハ不審ノコトナリ、依テ、小松帯刀来ルニ付相糺候処、小松モ見ナシト云」と言っていたそうです。(尾張と会津は親藩同士で、しかも慶勝と容保は兄弟なのに、鍬吉は薩摩藩の方を信頼しているという・・・) 参考:『越前藩幕末維新公用日記』p174(2019/1/28) 関連:■テーマ別慶応1有力諸侯召集問題 容保の東下運動 |
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