☆京都のお天気:曇折々風雪 (嵯峨実愛日記) >将軍上洛問題 ■容保東下問題 【京】元治2年2月3日(2.28)、御前会議にて、容保の出立延引について評議されました。 また、議奏正親町三条実愛は、二条関白から「会出立留承服、御尤と申す由」と聞きました。 <ヒロ> 前日、二条関白は、中川宮の使者・上田久兵衛の入説により、容保東下を老中本庄宗秀・阿部正外の参内まで猶予することに同意していました。東下の暇のため容保の参内が翌4日に控えていたため、急いで御前会議が開かれたのではと思います。朝議一変です。 なお、『京都守護職始末』では、「たまたま」老中松前崇広から幕府の情勢を知らせる書状が容保に届き、それを読んだ容保が、切に老中阿部正外・本庄宗秀の上京を待ちわび、東下の期日を延ばすこととして、二条関白に申し出た・・・とされています。その書状は、両老中の上京とその目的(賄賂による将軍上洛阻止、幕府歩兵による御所九門の警衛実現)や幕閣の情勢を知らせ、両名が参内した際には、将軍上洛がないことを「御怒りの色にて十分御責め」するよう求めるものですが(こちら)、1月12日付なんですよね・・・。いくらなんでも2月2日〜3日に受け取ったというのはいくらなんでもないのでは・・・と思いますが。どちらかというと、既にその書状を受け取っていたので、老中参内までの出立延期に納得したというところじゃないでしょうか? (おさらい) 会津藩は、1月31日、将軍上洛のための東下の暇を家老神保内蔵助を通じて内願し(こちら)、2月1日、朝廷より許可されていました(こちら)。しかし、容保の東下に反対する肥後藩留守居役上田久兵衛の入説で、中川宮・二条関白は、容保東下を両老中参内まで猶予することに同意していました(こちら)。 参考:嵯峨実愛日記(綱要DB 2月1日条 No7,8)、『京都守護職始末』2p349(2019/2/3) 【京】元治2年2月3日(2.28)、越前藩重臣3名が、中川宮を訪ねて、小倉表の征長の事情、撤兵後の長州の「混雑」(内乱)の風説等を報告しました。 また、会津藩下向中の京都警衛につき、越前藩に御沙汰が下っては「誠二難儀」だと述べ、一日も早く帰国して人馬を休め、そのうえで(必要であれば)またまた出京するので、よろしく願いたいと申し入れました。 参考:『朝彦親王日記』一p134(2019/2/3) |
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