【京】文久3年1月13日、将軍後見職一橋慶喜は学習院を初めて訪問しました。 <ヒロ> 慶喜は12月15日に陸路江戸を発ち(こちら)、大坂湾を巡視した後、1月5日に入京しました。 薩摩藩と連携して、将軍上洛前に、公武合体派会議によって国是(開国)を一決するつもりでしたが、京都では尊攘激派の勢いが盛んで、幕府には不利な状況でした。この2日前にも、長州藩久坂玄瑞らが宿舎に押しかけ、攘夷期限決定を迫るため面会を求めたばかりでした(こちら)。 この日、慶喜は議奏・伝奏と初会見に及んだそうで、彼らに向かって、攘夷を実行して事変が起これば、「慶喜は武将なり、請う身を以て之に当らん、貴卿らは攘夷発令の張本なり、希くは変に臨みて驚動することなかれ」と「凛然」と発言したところ、公卿らは悄然として一言もなかったそうです。 しかし、これくらいで激派公卿の勢いはとまりません・・焼け石に水といったところだったでしょうか。 参考:『徳川慶喜公伝』2・『修訂防長回天史』(2001.3.2、2002.3.2) 関連:■開国開城「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別:「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」 |
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