2月の「今日」 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ   次へ

文久3年1月11日(1863年2月28日)
長州藩激派久坂玄瑞ら慶喜に攘夷期限決定を迫るために面会を乞う。

■攘夷期限
【京】文久3年1月11日、尊攘急進派の長州藩士久坂玄瑞・寺島忠三郎、肥後藩の轟武兵衛・河上彦斎らが、5日前に入京した将軍後見職一橋慶喜の宿舎(東本願寺)を訪ね、攘夷の期限早期決定を催告するために謁見を乞いましたが、慶喜は病と称して会わなかったそうです。(1月5日に入京した慶喜は、8日関白近衛忠熙らを訪ね、10日には京都所司代らを従えて参内し、小御所で孝明天皇に挨拶をしたばかりでした。)

久坂らは慶喜に会えないのならと大目付との面会を強要し、攘夷の期限早期決定を催告したそうです。

慶喜は大目付を通して「諸士の憂国の至誠は神妙だが、将軍家がすでに攘夷の叡旨(天皇の勅)を奉じ、近々直接御上洛の上、公武合体の実を挙げ、衆議を経て速やかに期限を伏奏されることになっている。この前に余が私見を答えることはできない。時のくるのを待つべし」と諭させたが久坂らは承服せず、再三期限決定を促したものの、受け入れられなかったので去ったそうです。

そのとき、久坂らは「一橋公は水戸前中納言(徳川斉昭)の御子で地位・名望・ともに天下の頼るところであるのに、この人にしてこのような様であるなら、たとえ将軍が上洛しても攘夷実行の意思がないことが知れるものだ。ただいたずらに天朝を欺き、叡慮を誘惑するだけに過ぎない」と言い捨てたそうです。

<ヒロ>
『修訂防長回天史』では久坂の入京は1月13日ということになっていますが???

参考:『徳川慶喜公伝』2(2001/2/28)
関連:■テーマ別文久3:「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」「攘夷期限」 ■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限

前へ   次へ

2月の「今日」 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ