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文久4年1月28日(1864年3月6日)
【京】二条城会議:参豫諸侯(春嶽・容堂・宗城・久光)、
老中と長州処分の方法論を議す。(容堂と久光対立)
【京】春嶽、開国鎖国の議論はせず、必戦の備えを国是とするよう老中に意見する。
老中の参豫廃止論に対し、参豫の幕政参加を提案。
【長】高杉晋作、脱藩

★京都のお天気:快晴(久光の日記より)

■二条城会議(慶喜・容保欠席)

○長州処分について

【京】文久4年1月28日、参豫諸侯(松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、島津久光)が二条城に登城し、御用談所において総裁職・老中と長州処分の方針について論じました

前日の宸翰によって長州必罰の方向性は固まっており、この日はその方法論が話し合われましたが、容堂と久光が対立し、結論は出ませんでした。(もともとは、前日に将軍に付与された宸翰の請書及び諸侯への告示の草案を議論する予定だったのですが、宸翰拝受のために派遣した使者の帰りが遅れたたためこの件は議論されませんでした)。

久光は、(1)将軍滞京の上、(2)征長軍進発あるいは長州藩主父子を大坂に召喚すべきと主張しました。久光の意見はこれまでの参豫諸侯の話し合いの延長上にあり、宗城も「三郎所存は我輩同意」(『伊達宗城在京日記』)だったそうです。一方、容堂は独り意見が異なり、朝廷より幕府に委任があったので、綱紀が引き締められて幕府の威も貫達し、支障なく処分できるだろうから、(1)将軍東帰の上、(2)長州藩主父子を江戸に召喚すべきだと主張しました。両者が激論に及んだため、老中は「甚だ迷惑の体」(『続再夢紀事』)だったそうです。

<ヒロ>
ちなみに、容堂は、24日の二条城会議では総裁職らと激論になり、自分だけ退出してしまってます^^;。久光も、24日の件は、日記に「土ハ暴言ハキチラシ先に退出以之外ノ義」と不快感露に記しており(こちら)、25日には登城の要請があったものの「昨日ノ一条於予不平ノ義有之」断ったほどでした。そういうわけで、この日は容堂とは24日来の顔合わせになったわけですが、彼との激論については日記には書かれていません。思い出すのも不快だったのかも・・・!?

<(ナゾの)御用談所>
なお、この日、参豫諸侯は御用談所で総裁職・老中らと論談し、酒肴が振舞われた後、御休息所で将軍に謁し、従一位宣下(内旨)の書付を直に見せてもらったそうです。

関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■幕末日誌元治1 ■テーマ別元治1 「参豫会議」(朝廷参豫会議二条城会議 参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府) 「長州・七卿処分問題(元治1)」 

■春嶽@御用部屋

○破約攘夷について
【京】同日、御用部屋にて、春嶽は、開国・鎖国の議論をするのではなく、必戦の備え(=武備充実)を国是とすべきであると述べました

『続再夢紀事』によれば、老中有馬道純に開国鎖国について意見を求められ、春嶽は以下のように述べたそうです。
<「万国一天四海同胞なれば無論開を可」とすべきだが、今は開国鎖国の可否を議論せず、ただただ「必戦の備を立るを以て国是とすべき」である。なぜならば、開国鎖国とも必戦の備えがなくては実行できないが、必戦の備えは開国でなければ整わないことは言うまでもないため、可否を論じるには及ばないのである>

老中一同敬服したと述べたそうです。

○幕閣vs 参豫(参豫の幕政参加問題)
席上、水野老中は、春嶽に対し、<此節、(朝廷が)参豫を置くことは「公平の御処置」とも思えない>と述べました。春嶽は、<(将軍の)上洛前は「勢止むを得ざる次第」があって参豫を置かれたが、既に(将軍が)上洛されたので、今日になっては「或は不用なるべし」。とはいえ、今の参豫は「諸侯の巨壁」とも言うべき者なので、この際「参豫を廃して幕府の参謀に加」えれば、「真に公平」に至るだろう>と述べたところ、老中は何も答えずに終わったとか・・・。(『続再夢紀事』)

<ヒロ>
早くも幕府と参豫諸侯の主導権争い勃発の予兆!(参豫諸侯は参豫諸侯で内部が一枚岩ではありませんが・・・)。

前27日、孝明天皇が在京諸侯の面前で宸翰を下した後、天皇は将軍を再び召しだして酒等を振舞いました。総裁職・老中も召しだされ、参豫諸侯と協力して議論し、「皇運挽回」に尽力するよう命じられています(こちら)。このあたりから、老中の「公平の御処置」とは思えない・・・という不満が出たのではないでしょうか・・・。

■参豫集会@後見職邸(容保欠席)

【京】同日、参豫諸侯4名は下城後、この日は登城しなかった一橋慶喜の宿舎に集まりました。

『続再夢紀事』によれば、勅書の請書と告示案、及び長州処分について議論する予定だったのですが、やはり容堂に異見があったため、何も決定することができず、酒宴のみにて解散したそうです。なお、伊達宗城の日記によれば、長州処分については、慶喜から先日来参豫内で申し合わせてきた意見が述べられ、容堂一人が異見を述べたものの、慶喜の意見で粗決したことになっています。

また、宗城は、「参豫の事」について「論談」があったことも日記に記しています。詳細は書かれていませんが、参豫の御用部屋入り(=幕議への参加)の件、幕府の参豫廃止論、あるいはその両方のことだろうと思います。(追記:2月1日の春嶽宛慶喜書簡から参豫の御用部屋入りについて話されたことは確実のようです)

関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府」 「参豫の幕政参加問題「横浜鎖港問題(元治1)」 
***
■川越藩(総裁職)の根回し

○横浜鎖港問題

【京】同日、川越藩士山田太郎左衛問は、朝廷への横浜鎖港の報告について、越前藩士中根雪江に根回しをしました。

山田 (横浜)鎖港の件は昨年来の「一大難件」だが、その可否についてどう思われるか?
中根 今は、こちらから進んで開港に及ぶべきであるのに、既に開いた港を閉鎖しようというのは「無論拙策」である。可否をいわれれば、否と答えるしかない。しかし、最近関東に於いて鎖港の挙に及ばれたときく。成功の定見があってそうされたのならば、強いて否とは申すまい。
山田 貴説は欠点がない。だが、関東に於いて鎖港の挙に及ばれたのは、「朝廷の厳命黙止しがた」かったからであり、事の可否に関らず断行に決し、既に(横浜鎖港交渉の)使節をも出発させるに至った次第である。今回、(将軍が)御上洛されたので、(朝廷から)必ずお尋ねがあるだろうと思っていたが、今日に至るまでお尋ねがないので、幕府から何とか申し上げられるべきだとのご詮議もないわけではない。だが、この事は、橋公と春嶽公との間にさえ、「聊意味合」があるように伺われるので、暫く他日に付すことになっている。といって、際限なく延引すれば、厳命に対して落ち着かないところがある。この際、幕府から申し上げられることにしてはいかがだろうか。
中根 春嶽の存意を尋ねた上でお答えしよう。

<ヒロ>
山田にとって、このことは急を要する重大な話だったようです。将軍の上洛は、横浜鎖港の進捗状況を聞きたいという朝命によるものだったからだと思います。実は、山田は前日に二度も越前藩邸を訪ねていましたが、中根が不在だったため、この日の朝、さらに書簡を遣わして在邸の時刻を問い合わせていました。それで、中根の方から山田を訪問したそうです。


参考:『続再夢紀事』ニp383-386、『伊達宗城在京日記』p322、『玉里島津家史料』ニp746、『島津久光公実紀』ニ、『幕末政治と薩摩藩』(2010/3/4)
関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」 

【長州】文久4年1月28日、高杉晋作が長州藩を脱藩しました。

参考:『維新史料綱要』五(2010/3/4)

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