「今日」トップ 元治2年2月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

◆2/9へ ◆2/11へ

元治2年2月10日(1865.3.7)

【京】老中阿部正外・同本荘宗秀、所司代松平定敬に対し、
将軍上洛不可・征長総督徳川慶勝の東帰を朝廷に達するよう指示。
定敬、将軍の為にならないと断る。
【京】朝議、老中阿部正外・同本荘宗秀を召して上京の趣旨を詰問するに決定。
勅して厳に幕吏の賄賂受領を禁じる

☆京都のお天気: 晴 (朝彦親王日記)

>老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京
■老中vs所司代(桑名藩)
【京】元治2年2月10日(3.4)、老中本庄宗秀・阿部正外は、京都所司代松平定敬を呼び出し、朝廷に対して、将軍上洛不可能及び征長総督徳川慶勝の東帰を達するするよう指示しましたが、定敬はこれを断りました。

(やりとり@2月23日付上田久兵衛演達之趣聞取書(部分)のてきとう訳)
両老中 将軍様は「御物入打続」いて「御疲弊」に堪えられ兼ね、御上洛は御出来にならぬこと、また、尾州老侯は速かに御出府なくては叶い難い筋合いがあるので速かに御暇を下されるようにと、「程能」く伝奏に達されるべし。
定敬 朝廷より御召しになられたのに、そのような理由で御上洛されないのでは、きっと御為になりますまい。
両老中 これらは所司代の御役目であるので、御取次するように。
「御疲弊」では(上洛不可能の)御申し分が立ちがたい。創業以来、禁門への発砲は「未曽有之大変」で、天機を御伺いにならずにすむはずがない。そのうえ、朝廷がお召しになる理由もごもっともに存じる。是非とも御上洛されなければ「臣子之御職掌」が立ち難い。「御為不宣儀」の執達は仕りがたい。(と、「屹度」言い放った)
両老中 (「御甘口」で)難しく申し立てられずとも、よき塩梅に御取次をするように(と「だましすかしニ而」言ったが、定敬が「確乎として」承知しなかったので)それならば、自分共が直に達そう。
上様の御為にならぬとお気づきになりながら、そのまま朝廷へ仰せ立てられて「臣子之御職分」がおすみになるのか。
両老中 (返答が出来かね)篤と勘考いたそう。

<ヒロ>
ネタ元の「聞取書」は、(おなじみ)肥後藩留守居上田久兵衛が桑名藩公用人森弥一左衛門(常吉)から得た情報を在京重臣小笠原一学(等)に報告した内容となります。ちなみに、桑名藩士筑摩市左衛門は、13日に中川宮を訪ね、老中からの取次要請を断ったことを報告しています。

定敬も若いのに、兄松平容保と歩調を合わせて頑張ってます。(

それにしても、宗秀は5日、正外は7日に入京していますが、なぜこのタイミングでと所司代にと思います。本来なら、自分たちが参内して言上すべきだと思うのですが、参内の願いは出していません。朝廷への根回し(賄賂作戦)が思うようにいかないので、所司代に用件を言わせて様子をみようっていうところでしょうか?

両老中の賄賂作戦
本庄宗秀は、7日に、御所料理頭を介して、奥向に長持6個を運び入れるという贈賄工作をしました(2/7)。日時は不明なのですが、阿部正外も、二条関白の用人高嶋右衛門を六度に渡って旅館に呼び出そうとして失敗していました(阿部は、白河藩相続前、禁裏附役人を務めたことがあり、その頃の縁を頼ったようです)。阿部の呼び出しに対し、高嶋右衛門は、旅館に出入りすれば「堂上方諸藩等より目を注、関白殿関東と御馴合抔申立」ることになり、関白のためにならないと断ったのですが、阿部は、なお使者を送って、「殿下へ直ニ言上致し悪(にく)キ綾」があるので是非参るよう迫ったそうです。そこで、高嶋は、やむを得ず、「此節ハ賄賂金を御持参ニ相成り候抔頻ニ風評仕候故、常時関白殿御内之者参候も嫌疑御座候」ことを打ち明けて断ったそうです。(これも、久兵衛が桑名藩から得た情報です)。

参考:「京都自筆状控」『肥後藩国事史料』5p700-701/NDL-DC コマ377(2019/2/11)

■朝廷の動き
【京】元治2年2月10日(3.4)、朝議が開かれ、老中阿部正外・同本荘宗秀を15日に参内させて上京の趣旨を尋問することを決定しました。

また、孝明天皇は、関白以下に、老中からの賄賂の受領を禁じました。


(中川宮の日記の関連部分てきとう訳。()内は管理人)
一、今日・・・参内。関白、常陸宮(=山階宮)、一條(=一条実良)、予等(※)。その他は不参。
一、(紀州藩の内願のこと)
一、「関白以下両役、今度老中よりワイロメキ候到来物ハ被止候旨、御前御沙汰」があり、関白以下が(御沙汰を)御受け申し上げた事。
一、関白・予から「奥向両頭」にも「送物之義」を達する事。
一、老中に15日の参内を命じ、「ナニラノギニ仍て上京候ヤ可及尋問旨」を御治定の事。
一、会・桑・一(=会津・桑名・一橋)から、関白に「水浪一件御沙汰」の猶予を申し出た義は、一同、然るべしと申した。ただし、右等の義は会が老中へ掛け合っている。
一、「一」(=慶喜)から、尾越両将(=征長総督徳川慶勝・同副将松平茂昭)の参内時には「御褒詞御口上」が然るべし、さもなくば「大事件ニ相サハリ」宜くない旨を内々に申し入れがあり、一同もっともと申し入れる事。
一、一橋に対し、伯耆・豊後(=両老中)が「大樹より頼ノ旨」があるので30〜40日帰府してくれるよう申し出たが、中納言(=慶喜)はすぐさま「筋違ノ旨」を申し、老中に尋ねたところ、両人とももっともと答えた。ただし、(「頼ノ旨」は)「内外混雑且水戸一件相談」ということである。
(※)正親町三条実愛の日記によれば、実愛も参内。未刻(午後2時頃)に参内して国事を評定(→別席で尹宮(=中川宮)と面会)→夕から御前で衆議→酉半(午後7時頃)退出。

<ヒロ>
賄賂作戦は、孝明天皇の耳にも達してしまいました・・・。対幕府強硬派の公卿が、孝明天皇に耳打ちしたんでしょうか。あるいは幕府の攻勢にへきえきした二条関白がお願いしたとか?(薩摩藩の賄賂はいいのかと思いますが・・・・)

【京】元治2年2月10日(3.4)、中川宮は、議奏六条有容・正親町三条実愛に相次いで面会し、「老中応対虚心肝要義」と申し入れました(実愛は、このとき、中川宮に会津と「両家」になったことを話しました)。

参考:『朝彦親王日記』一p150-151、『嵯峨実愛日記』一p151(2019/2/11)
関連:■テーマ別慶応1 本庄・阿部老中の率兵上京

◆2/9へ ◆2/11へ
 
「今日」トップ 元治2年2月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ