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☆京都のお天気: 晴 (朝彦親王日記) >老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京 ■老中vs所司代(桑名藩) 【京】元治2年2月10日(3.4)、老中本庄宗秀・阿部正外は、京都所司代松平定敬を呼び出し、朝廷に対して、将軍上洛不可能及び征長総督徳川慶勝の東帰を達するするよう指示しましたが、定敬はこれを断りました。 (やりとり@2月23日付上田久兵衛演達之趣聞取書(部分)のてきとう訳)
<ヒロ> ネタ元の「聞取書」は、(おなじみ)肥後藩留守居上田久兵衛が桑名藩公用人森弥一左衛門(常吉)から得た情報を在京重臣小笠原一学(等)に報告した内容となります。ちなみに、桑名藩士筑摩市左衛門は、13日に中川宮を訪ね、老中からの取次要請を断ったことを報告しています。 定敬も若いのに、兄松平容保と歩調を合わせて頑張ってます。( それにしても、宗秀は5日、正外は7日に入京していますが、なぜこのタイミングでと所司代にと思います。本来なら、自分たちが参内して言上すべきだと思うのですが、参内の願いは出していません。朝廷への根回し(賄賂作戦)が思うようにいかないので、所司代に用件を言わせて様子をみようっていうところでしょうか? (両老中の賄賂作戦) 本庄宗秀は、7日に、御所料理頭を介して、奥向に長持6個を運び入れるという贈賄工作をしました(2/7)。日時は不明なのですが、阿部正外も、二条関白の用人高嶋右衛門を六度に渡って旅館に呼び出そうとして失敗していました(阿部は、白河藩相続前、禁裏附役人を務めたことがあり、その頃の縁を頼ったようです)。阿部の呼び出しに対し、高嶋右衛門は、旅館に出入りすれば「堂上方諸藩等より目を注、関白殿関東と御馴合抔申立」ることになり、関白のためにならないと断ったのですが、阿部は、なお使者を送って、「殿下へ直ニ言上致し悪(にく)キ綾」があるので是非参るよう迫ったそうです。そこで、高嶋は、やむを得ず、「此節ハ賄賂金を御持参ニ相成り候抔頻ニ風評仕候故、常時関白殿御内之者参候も嫌疑御座候」ことを打ち明けて断ったそうです。(これも、久兵衛が桑名藩から得た情報です)。 参考:「京都自筆状控」『肥後藩国事史料』5p700-701/NDL-DC コマ377(2019/2/11) ■朝廷の動き 【京】元治2年2月10日(3.4)、朝議が開かれ、老中阿部正外・同本荘宗秀を15日に参内させて上京の趣旨を尋問することを決定しました。 また、孝明天皇は、関白以下に、老中からの賄賂の受領を禁じました。 (中川宮の日記の関連部分てきとう訳。()内は管理人)
<ヒロ> 賄賂作戦は、孝明天皇の耳にも達してしまいました・・・。対幕府強硬派の公卿が、孝明天皇に耳打ちしたんでしょうか。あるいは幕府の攻勢にへきえきした二条関白がお願いしたとか?(薩摩藩の賄賂はいいのかと思いますが・・・・) 【京】元治2年2月10日(3.4)、中川宮は、議奏六条有容・正親町三条実愛に相次いで面会し、「老中応対虚心肝要義」と申し入れました。(実愛は、このとき、中川宮に会津と「両家」になったことを話しました)。 参考:『朝彦親王日記』一p150-151、『嵯峨実愛日記』一p151(2019/2/11) 関連:■テーマ別慶応1 本庄・阿部老中の率兵上京 |
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