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☆京都のお天気: 曇(朝彦親王日記) >老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京 ■中川宮の動き 【京】元治2年2月11日(3.5)、中川宮は、越前藩公用人本多修理に、両老中上京の詳細を語り、藩主松平茂昭(征長副将)の帰国は暫く待ち、朝幕の間で助力するようよう諭しました。 ※これより先、2月8日、越前藩は、藩士毛受鹿之助を中川宮に遣わして、帰国の暇を内願しましたが、その際も、中川宮から、老中の「苛酷」を理由に、帰国を待つよう諭されていました(こちら)。 (両者のやりとり@本多修理の日記 のてきとう訳。()内管理人)
<ヒロ> ちなみに本日の越前藩の献上品は生鯉2匹でした。 参考:『越前藩幕末維新公用日記』p180-181(2019/2/13) 【京】同日、中川宮は、尾張藩士水野彦三郎に対し、前藩主徳川慶勝(征長総督)に帰国を勘考するよう申し入れました。 尾張藩は、2月9日、書面で帰国の暇を願っていましたが、中川宮は、11日に水野を差し出すよう申し付けていました。この日、中川宮は、<慶勝の暇の件は如何心得ているのか。諸藩召集は慶勝から起ったのであり、「扨々(さてさて)困者」である。厚く勘考するように>と言ったそうです。 参考:『朝彦親王日記』一p152、156(2019/2/13) ■テーマ別元治2 本庄・阿部老中の率兵上京 >容保の東下運動 ■中川宮の動き 【京】元治2年2月11日(3.5)、中川宮は会津藩公用人小森久太郎を招き、藩主・守護職松平容保に、東下は「宜しからずと存じる」とくれぐれも申し入れるよう求めました。 <ヒロ> 両老中が未だ参内せず、幕兵は続々入京してくるし、尾張藩・越前藩は頻りに帰国を言い立てるしで、容保の東下をより一層不安に感じたという面もあったのでしょうか? (おさらい) 将軍上洛周旋のための容保東下運動は、尾張藩による長州処分討議のための有力諸侯召集運動に対抗するものでした。 1月31日、容保は、東下の暇を家老神保内蔵助を通じて内願し(こちら)、2月1日、朝廷より許可されていました(こちら)。しかし、2月2日、容保の東下に反対する肥後藩留守居役上田久兵衛の入説で、中川宮・二条関白が容保東下を両老中参内まで猶予することに賛同し(こちら)、2月3日の御前会議で、朝議一変、東下延引が決まり(こちら)、4日には、会津藩に、老中の話を篤ときくまでは東下を猶予せよとの内旨を達しました(こちら)。2月5日と7日に両老中は相次いで上京しました。2月8日、老中阿部は、容保と会し、速な東下が望ましいが、将軍上洛の見込みはないとし、滞府の上の将軍輔佐を促しました。容保、滞府は辞し、逆に阿部に東下への同行・将軍上洛の力添えを求め、阿部もこれに同意していました(こちら)。 参考:『朝彦親王日記』一p150(2019/2/10) 関連:■テーマ別元治2 容保の東下運動 >参勤交代復旧問題 ■薩摩藩の運動 【京】元治2年2月11日(3.8)、島津久光の使者・薩摩藩側役大久保一蔵(利通)は、近衛忠煕(前関白)・忠房(内大臣)父子に、参勤交代復旧の沙汰を内願しました。 近衛父子はその趣意に同意し、明日、二条関白に(薩摩藩による沙汰書の)「御草稿」を見せて詳しく言上しておくと述べました。 (おさらい) 文久2年閏8月、幕府は参勤交代・大名妻子の在府制度を改正し、大名の参勤は三年に一度、三カ月の在府とし、大名妻子の帰国を許していました。ところが、元治1年の禁門の変後の9月1日、幕府は、突然、(将軍の)「深き思召も被為在候ニ付」参勤交代及び諸大名妻子の在府制度の復旧を発令しました(こちら)。しかし、諸藩が様々な口実を設けて実行しなかったので、1月25日には、改めて諸藩に参勤交代の厳守を命じていました。 大久保一蔵は、島津久光の命を受け、2月7日に着京すると、9日には、在京家老小松帯刀と同道して中川宮を訪ね、参勤交代停止の朝命を内願しました。その際、中川宮は近衛忠房と相談の上、忠房から返答させると回答していました(.こちら)。 参考:『大久保利通日記』一p239(2019/2/10) 関連:■テーマ別元治2 参勤交代復旧問題 >大久保一蔵の得た情報 ■両老中率兵上京の内情 【京】元治2年2月11日(3.5)、大久保一蔵は、近衛忠房より、両老中上京の内情を聞取り、日記に「惣体、戊午時分ノ幕ニ復シ候暴意ニ相見得、実ニ大変之次第」だと記しました。 (一蔵の日記(部分)のてきとう訳。段落分け、※も管理人)
■天狗党への苛酷な処分 また、一蔵は、先日敦賀で刑死した武田耕雲斎らに対する田沼意尊の扱いが苛酷を極めたことも耳にし、「実ニ聞ニ不堪次第」で「是ヲ以て幕滅亡之表ト被察候」、と日記に記しました。 一蔵のきいた噂は、投降した彼らが土蔵に押し込められ、「衣服を剥取、赤身ニなし、束飯ニテ、獣類ノ会釈ニ候」というものでした。 <ヒロ> 聞くに堪えないのは同感です・・・。あまり、これまでの一蔵の日記や手紙は読んでいないのですが、「幕之滅亡」と書かれたのはこれが初めてだったりするんでしょうか? 参考:『大久保利通日記』一p239−243(2019/2/12) 関連:■テーマ別元治2本庄・阿部老中の率兵上京、天狗党処分と幕府への批判 【京】議奏六条有容、幕府老中からの「賄賂がましき内々の音物」の受領を禁じる関白の命を伝達 【京】征長総督府、九州五藩に、五卿・従士の五藩分置を命ずる。 |
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