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元治2年2月11日(1865.3.8)
【京】中川宮、越前藩に老中上京の詳細を語り、帰国の猶予・助力を求める。
また、尾張藩に徳川慶勝の帰国の勘考を求める。
【京】中川宮、会津藩主松平容保に東下宜しからずを申し入れる
【京】薩摩藩士大久保利通(一蔵)、近衛前関白父子に参勤交代停止の朝命を内願。
【京】大久保一蔵、日記に、幕威復活の「暴意」を記し、天狗党処分の「苛酷」を「幕滅亡の表」と批判。

☆京都のお天気: 曇(朝彦親王日記)

>老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京
■中川宮の動き

【京】元治2年2月11日(3.5)、中川宮は、越前藩公用人本多修理に、両老中上京の詳細を語り、藩主松平茂昭(征長副将)の帰国は暫く待ち、朝幕の間で助力するようよう諭しました。

※これより先、2月8日、越前藩は、藩士毛受鹿之助を中川宮に遣わして、帰国の暇を内願しましたが、その際も、中川宮から、老中の「苛酷」を理由に、帰国を待つよう諭されていました(こちら)

(両者のやりとり@本多修理の日記 のてきとう訳。()内管理人)

中川宮
昨日参内し・・・「当職」(=二条関白)に、(越前藩の暇願いに)どう返答いたすべきかと申したところ、<尾州よりも頻りに(暇を)願い立てており、近衛へは直書、此方へも申して参った。「今両閣老上之処置兇々之処」であり、尾も越も帰るようになってはならぬ。何分、熟考申と御答え置き下されるように>との事であった。(そういうわけで)気の毒ながら暫く待ってもらわねばならぬ。この段を(茂昭に)よろしく申し上げ、心得てもらいたい。・・・・越前の帰国はよいが、(今帰国して)「兇之処」を遁れる様になるのはどうか・・・二十日頃までには何とか見当もつくはずである。歩兵は少しずつ帰すのは構わない。「当職」へは誰なりと出て願うがよろしい。

両閣老からは参内も願いださず、何も禁中へ対してのことは申し出さぬが、一橋・会津へは既に申し出たという。(その趣旨は)橋公のこれまでの京地における「御配慮之義」は柳営も御大慶に思召されるが、江戸政務の御相談・水府表御取締りを御頼みしたく、早々御東下あるように・・・とのことである。(これに対して)橋公が<(自分は)去年将軍お帰りの際、将軍に代って御守衛いたすよう命じられており、その心得で京地に(身を)曝すつもりである。(京地は)「多事」でもあり、只今見放すことは如何にも出来難い。水府については、(自分は)不才で見込みもなく、第一、兄(=水戸藩主徳川慶篤)のなされるところへ出て、鎮撫の何のと申すことができるものか。お考えあるように>と答えたところ、両閣老はもっともだと閉口し、<旅館で熟考の上、なお申上げましょう>と述べたという。

(両老中の)「内慮」は「橋も会津も桑迄も取除」き、「金銀ヲ遣シテナリトモ」大津へ送り出しさえすればよい見込みだとかで、かつ、朝廷については、賄賂をもって、「当職」等を取り換える見込みだと聞く。また、諸藩についても、京地に出る理(ことわり)はなく、周旋家等が(朝廷へ)立入るのは如何の事、「早々駆立」て「京都ヲ静」かにして、朝廷が「文化以前ノ如」くになれば、それで「天下ハ静謐」という見込みだと聞く。「アマリノコト」である。

しかしながら、(両老中は)京都へ出てみて少しは意見を緩めたようにも聞こえる。参内する気もない。歩兵は日々増すと聞く。・・・「とふスルノデアロフト思フ」。
本多 (九門・橋公と替わる見込みの風説(=御所九門守衛を諸藩からを幕兵に交替させ、慶喜の代わりに両老中が京都に居残るつもりだとの説)を言上する)
そーじゃ、禁門へ発砲はしまいが、どこぞを砲撃するつもりと見える。九門の御固めは、順を以て言えば、諸侯へ申し付け置く理はない。柳営の人数でする理ではあるが、昨春、将軍が受け取って帰ったことを一事もせずに、このことばかりと申すはあたらぬ。
本多 いずれ(老中が)橋公へ頻りに(東帰を)お攻め付け申上げると、橋公もお困りになるでしょう。その節は、橋公は是非なくお帰りになられるでしょうか。
それはいつまでも帰すことはせぬ。会もその通り。
本多 このような公武の御間の事で、越前を御頼みになられても、第一、事に馴れている老君(=春嶽)は在国で、当越(=茂昭)は事に慣れ申しません。何分、両君が十分講究の上でなくては尽力の致し方もありませんので、一度、御帰し下されば、両君が打ち合わせ、国是を定め、大蔵大輔(=春嶽)なりが上京し、十分尽力仕ります。
その大蔵大輔は出ることができぬ。自ら出るとなると幕命に背き、大輔の難儀となる。朝命で呼べば、(大政)委任が浮く。
本多 (将軍)上洛の義はいかがでしょうか。
なかなか上洛親征などということのできるわけがない。費用にも堪えぬ次第とのこと。(老中は、上洛督促の)勅使の御下しがなければ好都合、御下しとなればそれきり辞職するので禁裏は御勝手次第になられるようと申す次第という。これにては「関東自ラ滅スル道理」である。朝廷が、一昨秋、八幡行幸までも御止めになったのは、関東を助けてのことで、関東をつぶしては治まらぬことである。またこの数年、関東を御憐れみ、御助けしてきたのに、このような次第では、実に「自ラ滅ルノ理」である。(徳川家の)八百万石をもって長州のように堅固に守る心か、勅使を下せばそれが物別れになるなどは、「アマリナル暴言」と存じる。

<ヒロ>
ちなみに本日の越前藩の献上品は生鯉2匹でした。

参考:『越前藩幕末維新公用日記』p180-181(2019/2/13)

【京】同日、中川宮は、尾張藩士水野彦三郎に対し、前藩主徳川慶勝(征長総督)に帰国を勘考するよう申し入れました。

尾張藩は、2月9日、書面で帰国の暇を願っていましたが、中川宮は、11日に水野を差し出すよう申し付けていました。この日、中川宮は、<慶勝の暇の件は如何心得ているのか。諸藩召集は慶勝から起ったのであり、「扨々(さてさて)困者」である。厚く勘考するように>と言ったそうです。

参考:『朝彦親王日記』一p152、156(2019/2/13)
■テーマ別元治2 本庄・阿部老中の率兵上京

>容保の東下運動
■中川宮の動き
【京】元治2年2月11日(3.5)、中川宮は会津藩公用人小森久太郎を招き、藩主・守護職松平容保に、東下は「宜しからずと存じる」とくれぐれも申し入れるよう求めました。

<ヒロ>
両老中が未だ参内せず、幕兵は続々入京してくるし、尾張藩・越前藩は頻りに帰国を言い立てるしで、容保の東下をより一層不安に感じたという面もあったのでしょうか?

(おさらい)
将軍上洛周旋のための容保東下運動は、尾張藩による長州処分討議のための有力諸侯召集運動に対抗するものでした。 1月31日、容保は、東下の暇を家老神保内蔵助を通じて内願し(こちら)、2月1日、朝廷より許可されていました(こちら)。しかし、2月2日、容保の東下に反対する肥後藩留守居役上田久兵衛の入説で、中川宮・二条関白が容保東下を両老中参内まで猶予することに賛同し(こちら)、2月3日の御前会議で、朝議一変、東下延引が決まり(こちら)、4日には、会津藩に、老中の話を篤ときくまでは東下を猶予せよとの内旨を達しました(こちら)。2月5日と7日に両老中は相次いで上京しました。2月8日、老中阿部は、容保と会し、速な東下が望ましいが、将軍上洛の見込みはないとし、滞府の上の将軍輔佐を促しました。容保、滞府は辞し、逆に阿部に東下への同行・将軍上洛の力添えを求め、阿部もこれに同意していました(こちら)。

参考:『朝彦親王日記』一p150(2019/2/10)
関連:■テーマ別元治2 容保の東下運動

>参勤交代復旧問題
■薩摩藩の運動
【京】元治2年2月11日(3.8)、島津久光の使者・薩摩藩側役大久保一蔵(利通)は、近衛忠煕(前関白)・忠房(内大臣)父子に、参勤交代復旧の沙汰を内願しました。

近衛父子はその趣意に同意し、明日、二条関白に(薩摩藩による沙汰書の)「御草稿」を見せて詳しく言上しておくと述べました。

(おさらい)
文久2年閏8月、幕府は参勤交代・大名妻子の在府制度を改正し、大名の参勤は三年に一度、三カ月の在府とし、大名妻子の帰国を許していました。ところが、元治1年の禁門の変後の9月1日、幕府は、突然、(将軍の)「深き思召も被為在候ニ付」参勤交代及び諸大名妻子の在府制度の復旧を発令しました(こちら)。しかし、諸藩が様々な口実を設けて実行しなかったので、1月25日には、改めて諸藩に参勤交代の厳守を命じていました。

大久保一蔵は、島津久光の命を受け、2月7日に着京すると、9日には、在京家老小松帯刀と同道して中川宮を訪ね、参勤交代停止の朝命を内願しました。その際、中川宮は近衛忠房と相談の上、忠房から返答させると回答していました(.こちら)

参考:『大久保利通日記』一p239(2019/2/10)
関連:■テーマ別元治2 参勤交代復旧問題

>大久保一蔵の得た情報

■両老中率兵上京の内情
【京】元治2年2月11日(3.5)、大久保一蔵は、近衛忠房より、両老中上京の内情を聞取り、日記に「惣体、戊午時分ノ幕ニ復シ候暴意ニ相見得、実ニ大変之次第」だと記しました。

(一蔵の日記(部分)のてきとう訳。段落分け、※も管理人)
・両閣老上京の次第は、大略次の通り、内府公(=近衛忠房)より伺った。
・伯耆守(=本庄宗秀)が橋邸に参殿したが、上京の趣意を一切申上げない。この度の義は御召しによって上京と申す訳にもなく、かつ大樹公御使いと申す訳にもなく、趣意は豊後守と一緒に申し上げますとの事ゆえ、橋公「例之謀略」で酒を勧められ、酩酊の上、ついに白状いたした由。(※2月6日のこと(こちら))
・(宗秀が白状するに)第一、当今、朝権が立たぬ訳は、諸藩がみだりに上京・種々入説いたす結果、軽率に朝命を発し、それゆえ朝権も薄く、従って幕威も衰えるので、「凡而諸藩を払尽シ幕手ヲ以て奉護」するつもりで大人数も引き連れ上京した。一体、「朝廷之御利口」は不適切(「不宜」)で、(朝廷は)「棚上之神」に類して、容易に朝命など発さず、「社御当然」にあるべきである。かつまた、朝廷を始め、公卿方御一同は「薄録」なので、今回、「莫大之金」を持参した。何方なり共これを投じれば、右等の事項は大方片付くだろう、と申した由。
・(宗秀は)橋公へは・・・大樹公も種々御心配の義が多く、万端御相談になられたく、(慶喜の帰府を)大樹公自ら朝廷へ御願いされるので、御沙汰が出次第早々に御帰府になられたい、と申し上げた由。(慶喜が)大樹公の御心配とは何か、「神奈川鎖港一條」かと御返しのところ、(宗秀は)いや、「神奈川一條」については、既に英人を斬り殺した者を英人の面前で死刑に処したため、先方も悦び、償金も受け取りに及ばずと申しており、何も懸念に及び申さず、と申し上げた。(慶喜が)左様ならば、どの事件かと「御押詰」めたところ、(宗秀は)「常野浪士一條」(=天狗・諸生争乱)で召されたと申し上げた。(慶喜は)その義はお断り申し上げたい。常野のことは、実兄(=水戸藩主徳川慶勝)を差し置いて、自分が色々申すのは相済みがたいので、台命(=将軍の命令)といえどもお断り申し上げるつもりだ、と御答えした由。

■天狗党への苛酷な処分
また、一蔵は、先日敦賀で刑死した武田耕雲斎らに対する田沼意尊の扱いが苛酷を極めたことも耳にし、「実ニ聞ニ不堪次第」で「是ヲ以て幕滅亡之表ト被察候」、と日記に記しました。

一蔵のきいた噂は、投降した彼らが土蔵に押し込められ、「衣服を剥取、赤身ニなし、束飯ニテ、獣類ノ会釈ニ候」というものでした。

<ヒロ>
聞くに堪えないのは同感です・・・。あまり、これまでの一蔵の日記や手紙は読んでいないのですが、「幕之滅亡」と書かれたのはこれが初めてだったりするんでしょうか?

参考:『大久保利通日記』一p239−243(2019/2/12)
関連:■テーマ別元治2本庄・阿部老中の率兵上京天狗党処分と幕府への批判

【京】議奏六条有容、幕府老中からの「賄賂がましき内々の音物」の受領を禁じる関白の命を伝達
【京】征長総督府、九州五藩に、五卿・従士の五藩分置を命ずる。

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