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元治2年2月12日(1865.3.9)
【京】老中阿部正外、容保に対し、今回は余儀なく上京したと明かす。
【京】会津藩公用人小森久太郎、中川宮に容保東下の意思を回答する。
【江】幕府、大目付駒井朝温を罷めて差控を命ず。

☆京都のお天気: 晴 (朝彦親王日記)

>老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京
■阿部正外の本音
【京】元治2年2月12日(3.4)、老中阿部正外は、松平容保に、今回の上京について、使命(将軍上洛不可能、幕兵による九門警衛交替等)は実現可能だと思わないが、老中水野忠精・牧野忠恭の命で、「余儀なく」上京したのだと吐露しました。

(二人のやりとり@2月23日付上田久兵衛演達之趣聞取書(部分)のてきとう訳。段落分け、()内も管理人。茶色は原文の割註)
12日、阿部候がお一人で会津候に会われた際に、今回は右の両条(将軍上洛不可能。征長総督帰東)、九門解放(=九門警備の諸藩兵を幕兵に交替)等の御用筋で上京したとの御話・御相談があった。

会津候が、将軍様の御召しは、元来、朝廷より、関東御取立ての厚き思召しであり、京地の事情は斯様々々・・・と一々篤と御談合なされると、阿部候は一言の御返答もできず行き詰られた。

(容保が)右様の儀が現実に行われるとの御見込みで江戸表を御出立になったのかと御尋ねになったところ、(阿部老中は)実は、行われ申すべきとはいささかも存じ申さず、「内実ハ因備より被使、無余儀参候。東西ニ因備か居候て績らぬ」とかで、自分も伯耆(=老中本庄宗秀)も(このまま使命を果たさず)帰府すれば、松前(=老中松前崇広)同様と存じる、と御話になったという。

東の因備は諏訪・牧野の両閣老州、西の因備は因州・備前両国を御指しのことと相見える。

右は(肥後藩留守居上田久兵衛が)桑名藩(公用人)森弥一左衛門より聞き取った内容の演達の大意である。
参考:(肥後藩在京重臣・小笠原一学の)「京都自筆状控」『肥後藩国事史料』5p704 /NDL-DC コマ379(2019/2/19)

また、容保が、(将軍上洛尽力のために)東下すべきだと説諭したところ、阿部老中は、すぐさま帰国の暇を願いたいと答えました

参考:『朝彦親王日記』一p150(2019/2/19)

<ヒロ>
阿部老中は、2月8日にも容保を訪ねていました。容保には、速やかな東下・滞府の上の将軍補佐を促しましたが、固辞され、逆に東下に同行して、将軍上洛に尽力するよう説得されました。それには、もっともだと同意したものの、「少々御用」があるので、容保出立後に早々に引き取ると述べるにとどまっていました(こちら)。その「少々御用」がうまく運ばず、この日、とうとう容保に打ち明けて助力を願い出たところ、またまた説諭された上、重ねて東下を要請されたというところですね。前回と違って、すぐにも暇を願いたいというあたりに、やる気の低下がうかがえます。朝廷からは、両老中に、18日に参内するよう命が下っているので、それを避けたいのかも??

関連:■テーマ別元治2 本庄・阿部老中の率兵上京

■会津藩の容保東下運動
【京】元治2年2月12日(3.4)、会津藩公用人小森久太郎は、中川宮に対し、藩主松平容保の東下の意志が固いことを告げました。(※ 中川宮は、前日、小森を呼び出して、容保に東下を勘考するよう申し入れていましたこちら)

小森は、さらに、本日、豊後守(=阿部老中)が来たので、(容保が)その辺を説話し、(阿部老中も)下向すべきだと申したところ、(阿部老中は)すぐさま御暇を願いたいと答えたとも述べました。中川宮は、もっともだ、と言って置いたそうです。

同日、会津藩公用方広沢富次郎(安任)は、中川宮を訪れた際、藩主松平容保の東下について、近頃の情勢では一勘考せねば難しいと述べました。

中川宮は、先日、広沢に、岡宮(恒子女王・二条斉敬正室)の二条殿引っ越しの件を頼んでいたそうで、広沢の用件は、広沢が二条家家臣に内々に申し入れた結果の報告だったようです。

<ヒロ>
広沢も中川宮にちょくちょく顔を出しています。中川宮の私用で二条関白家に周旋するあたり、会津藩/広沢が両者から信頼されてることがうかがえます。

参考:『朝彦親王日記』一p150(2019/2/19)
関連:■テーマ別元治2 容保の東下運動

【江】元治2年2月12日(3.4)、幕府は、大目付駒井朝温を罷免し、差控を命じました。

駒井は、長州藩主父子の江戸護送の命を受けていましたが、実行の困難さを慮って、固辞していたため、罷免されたそうです。

(おさらい)
征長総督徳川慶勝は、元治1年12月27日、征長諸藩に撤兵を命じると(こちら)、翌元治2年1月1日、幕府に使者を派遣して長州服罪の様子と長州処分意見を上申させました(こちら)。一方、幕府は、入れ違いで、大目付大久保忠宣・目付山口直殻を芸州に派遣し、1月5日、慶勝に長州藩主父子及び三条実美らの江戸送致を命じましたが、慶勝は自分は将軍から黒印の全権委任を受けているとして、幕命を拒否しました(こちら)。慶勝が送った使者は1月11日に江戸に到着ししましたが(こちら)、幕府は、1月15日、長州処分は江戸で行うので将軍進発を中止すると布達しました(こちら)。さらに、2月4日、大目付駒井朝温・目付御手洗幹一郎に長州藩主父子の江戸護送を、五卿警衛五藩に、三条実美等の江戸護送を命じました(こちら)

参考:『維新史』四p383(2019/2/19)
関連:■テーマ別元治2 長州藩主父子・五卿江戸送致問題

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