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文久4年2月5日(1864年3月12日) 
【京】軍艦奉行並勝海舟、摂海防御及び神戸海軍操練所の強化を委任される
【京】二条城会議(容保・容堂欠席):久光、宸翰の「有のまま」の布告を主張
仏艦隊下関襲撃の噂が京都に届き、勝海舟の長崎派遣を決定。


★京都のお天気:陰午後雨(久光の日記より)

■摂海防御
【京】文久4年2月5日(1864.3.12)、軍艦奉行並勝海舟は、老中から摂海防御及び神戸海軍操練所の強化を委任されました。(@二条城御用部屋)

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p140(2010/3/25)

■二条城会議(容保・容堂欠席)

【京】文久4年2月5日(1864.3.12)、二条城会議(@慶喜詰所)において、島津久光は1月27日の宸翰布告について、既に一部の諸侯が内容を見ているので、「有のままに」布告すべきと主張しました。

征長軍の参加大名についても評議がありましたが、結論は出ませんでした。

また、この日、久光は、仏艦隊が長州を攻撃するために2月末にインドを出港し、今月6日ごろには下関を襲撃するとの風説を一座に伝えました。結果、これを差し止めるために、軍艦奉行並勝海舟を長崎へ船で派遣することが決まりました。

<ヒロ>
将軍が1月27日の参内時に諸侯の前で受取った宸翰(詔書)は、薩摩藩が内密に提出した草稿がほぼそのまま採用されています(こちら)。宸翰の内容はいわば薩摩藩の主張でもあるわけで、そりゃあ、久光にとっては、ぜひとも「有のままに」布告してほしいところですよネ。

参考:『続再夢紀事』ニp404-406、『玉里島津家史料』ニp749、『伊達宗城在京日記』p325、『勝海舟全集1 幕末日記』p140(2010/3/25)
関連:■テーマ別元治1「将軍への二度の宸翰」「長州・七卿処分(2)」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊

■守護職
【京】文久4年2月5日(1864年3月12日)、会津藩主松平容保は二条関白と「両敬の約」を結びました。

日付は『会津松平家譜』によりました。なお、同書によれば「両敬の約」は「蓋し両家相敬し、親交姻戚に亜くなり」のことだそうです。「盤錯録」(『会津藩庁記録』六)によれば日付は6日です。(両敬の約を結ぶ程度には元気な容保は、二条城会議には出ていないわけですが・・・単に参豫集会に関心がなかったか、それとも最初から呼ばれなかったかなのか・・・?いずれにしても、政治的な動きへの対応が鈍い気がします)

参考:『会津松平家譜』p295、『会津藩庁記録』六p436(2010/6/28)

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