3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別幕末日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
前へ 次へ
★京都のお天気:快晴(久光の日記より) ■横浜鎖港問題 【京】文久4年2月4日(1864年3月10日)、島津久光は松平春嶽に小松帯刀を遣わし、鎖港交渉使節帰国までの期間限定の鎖港を是とし、当面は幕府に委任することを春嶽に相談しました。 小松が述べた内容は・・・先日の会議で久光は横浜鎖港の幕議は「拙策」であり、「必ず後難を免」れないので老中に意見をしたが(こちら)、再考すると、外国へ派遣した鎖港交渉使節が帰国するまでの間、その主義(=鎖港)を維持してもその間に難事が生じるとも思われない。然るに、今日において強いて「拙策」を主張し、そのために「朝野瓦解」に及んでは却って「為すべからざるに至」るだろうから、暫く幕府に任せておいてどうか・・・というものでした。 春嶽が、使節が帰国するまでの期間限定ならば異存はないと答ると、小松は、早速一橋邸に赴いて慶喜に言上すると述べて退出しました。 <ヒロ> 久光・春嶽は、当面の間は横浜鎖港を是とすることで、幕府と妥協したわけなのですが、本意であるわけはなく、横浜鎖港問題は尾をひくことになります・・・。 参考:『続再夢紀事』ニp398-399(2010/3/24) 関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」同文久3「横浜鎖港問題(1)」、同元治1 「横浜鎖港問題(2)」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■宸翰布告問題 【京】文久4年2月4日(1864年3月10日)、幕府は1月27日の宸翰(詔書)の布告延期を決定しました。 この日、登城前の春嶽に、容堂が使者を送って宸翰布告への反対意見を述べさせました。その意見は、宸翰中に「藤原実実云々並に暴臣必罰」等の文言があり、この勅書を広く伝播することになれば、長州の君臣は「必ず必死の境域に陥」るだろう、そうなっては「容易ならざる次第」なので、「軽々しく布告」すべきではない、というものでした。春嶽は、容堂の意見も「亦真理ある事なり」と直ちに同意し、登城後、老中らにかくかくしかじかの懸念があるので布告せぬ方がよいと述べたところ、老中をはじめ大小監察まで大いに敬服し、延期に決まったそうです。 <おさらい:1月27日の宸翰布告問題> 将軍家茂が在京諸侯42名の面前で受取った1月27日の宸翰(実は薩摩藩起草)については、当初、2月2日に布告の予定でした。しかし、その前日(1日)の春嶽・老中らが出席した会議において、慶喜が文中に「開港の意味」が含まれるとして布告延期を提案(こちら)していました。春嶽は延期に反対しましたが、結論が出ず、翌2日に参豫諸侯と話し合うことになりました。2日の二条城会議では、 春嶽が速やかに布告すべきと主張したところ、総裁職・老中も同意し、布告と決まったばかりでした。 参考:『続再夢紀事』ニp399-400(2010/3/24) 関連:■テーマ別元治1「将軍への二度の宸翰」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■長州東上 【長州】三条実美は、水野丹後(正名)・真木和泉守・宮部鼎蔵・高木元右衛門と東上を謀議しました。 参考:『維新史料綱要』五p114(2010/3/24) |
|