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文久4年2月17日(1864.3.24)
【京】幕府、横浜鎖港の請書の提出を18日に延期
【京】幕府、容保に軍事総裁職委任条件
(陸海軍奉行・講武所奉行・三番頭以下の軍職の統括)を示す

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)

■宸翰請書問題/横浜鎖港問題
【京】文久4年2月17日(1864年3月24日)、幕府は横浜鎖港の方法の請書を明18日に提出することになりました。

参豫&京都守護職松平春嶽は、前夜、中川宮邸において、幕府が提出した宸翰請書は「鎖港の処置方を明言」していなかったので、新たに「其処置方を明記したる」請書を作成し、17日に慶喜とともに参内して二条関白に差し出すと約束していました(酩酊した慶喜も退出時に同じようなことを言ってましたが^^;)。

しかし、この日、慶喜は登城せず、新たな請書は老中水野忠精から関白に差し出すよう言い寄越してきました。その後、慶喜は、春嶽らから、それでは昨日の約束と違って「不都合」だと参内を求められ、ようやく登城しますが、もう時間が遅いと、やはり参内はせず、その旨を関白へ伝えました。その後、幕府内で協議した結果、明18日朝、慶喜が請書を関白邸に持参することに決まりました。

<ヒロ>
2月18日付原市之進書簡によれば、慶喜は中川宮邸退出後、慶喜はさらに「劇飲」をして、「痛快痛快」と気焔を上げていたそうですから・・・二日酔い?(笑)

参考:『続再夢紀事』ニp434-435、『玉里島津家史料』ニp751-、三p111、『伊達宗城在京日記』p343-344(2010/4/14)
関連:■テーマ別元治1 「参豫会議「将軍への二度の宸翰」」「横浜鎖港問題(元治1)」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊

■会津藩の守護職更迭問題
【京】文久4年2月17日(1864年3月24日)、幕府は会津藩主松平容保に軍事総裁委任条件を示しました。

通達書によれば、軍事総裁の指揮下には、陸軍奉行、講武所奉行、大御番頭、御書院番頭・御小姓組番頭、騎兵奉行、歩兵奉行、御旗奉行、御軍艦奉行、騎兵頭、歩兵頭、御持筒組頭、御槍奉行、新番頭御持之頭、御先手、御使番、御鉄砲方、御徒頭、小十人頭が置かれました。

さらに、軍事総裁職は陸軍奉行以下に加えて「海軍軍事総督の心得」でもあり、軍備に関係することは大事と老中が相談し、小事は全権をもって指揮し、「皇国全体之御実備」を「厳重」にして(=増強して)、「御武威海外相輝候策略」を施すようにと指示しました。(←2月24日)

<ヒロ>
容保は前日(16日)に軍事総裁職を拝命していました(こちら)。

参考:『七年史』ニp124-125、『京都守護職始末』(2002/3/26)
関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題」■守護職日誌元治1 

■参豫会議解体へ
【京】この頃、京都市中の各所に松平春嶽・島津茂久・島津久光の開港論を批判する文書が貼られました

参考:『維新史料綱要』五(2010/4/14)
関連:■テーマ別元治1 「参豫会議

■その他の出来事
【京】夜、伊達宗城を突然松平春嶽が訪ねて面会
(『伊達宗城在京日記』p343-344(2010/4/14)

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