3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

◆2/17へ  ◆2/19へ

文久4年2月18日(1864.3.25)
【京】幕府、横浜鎖港の請書を別途朝廷に提出(参豫同意の意見書)
【江】老中、連署して松平容保の守護職更迭に反対

☆京都のお天気:晴晩景細雨(久光の日記より)

■宸翰請書/横浜鎖港問題
【京】文久4年2月18日(1864年3月25日)、幕府は横浜鎖港の請書を別途伝奏に提出しました。また、春嶽・宗城・久光は連署で請書に異存ない旨の意見書を提出しました。


●請書の大意は以下のとおり。(番号は仮)
(1) 鎖港の件は、兼て御沙汰もあったが、方今「宇内之形勢も」あるので、長崎・箱館はそのままに差し置き、横浜一港を閉鎖する事をそれぞれの外国へ談判のため使節も差し出し、いずれ「成功を遂可申見込に御座候に付」、このことを言上する。
(2) 右使節の帰国には年月を要することなので、それまで「摂海を初各国沿海之武備」を精々勉励し、「膺懲之御趣意」を「一日も早く貫徹」するようにしたいと存じる。
(参考:『続再夢紀事』ニp436-437採録の請書。管理人は素人なのでそのまま資料にしないでね)

なお、請書及び参豫3名の意見書提出にいたるまでのこの日の主な動き(中根雪江視点)は以下の通り。
春嶽が藩士中根雪江を中川宮に遣わし、前日に予定されていた請書提出が遅れた理由(こちら)を説明させた。
中川宮は請書の手続きについて、次のように述べた。。
請書は将軍直筆が「最然るべし」
請書は老中から伝奏に差し出すとよい
請書の書面については、いずれ「参豫の意見を垂問する筈」だが、参豫が「別段意見なき事なら予め意見なき旨の」別紙をつけて併せて伝奏に差し出してくれると「便方」である。
中根は中川宮の意見を春嶽に告げ、さらに春嶽の命で一橋邸を訪ねて応対した黒川嘉兵衛を介して慶喜に伝達した。慶喜は今将軍直筆の請書が二条城から届いたので、直ちに二条城に馬を走らせると述べた。中根は登城した春嶽のもとに赴いて経緯を話すと、中川宮邸に向かい、慶喜から関白に差し出すことになったと伝えた。
請書に添える参豫の意見書(請書には異存がないとの趣旨)は、二条城で春嶽・宗城・久光が相談の上、直に伝奏に差し出した。
(参考:『続再夢紀事』ニ。管理人は素人なのでそのまま資料にしないでね)

<ヒロ>
1月27日の宸翰に対する請書は2月14日に将軍が参内して差し出していました(こちら)。横浜鎖港だけ別途請書を提出することになったのは、以下におさらいするように、慶喜の申し出がきっかけでした。
2月15日、朝廷参豫会議(御前会議)が開かれ、まず慶喜だけが呼ばれた。朝廷側から14日の請書中の横浜鎖港に関する文面が曖昧だと指摘された。慶喜は、請書は既に布告済みで取り消すことはできないので、朝廷が横浜「断然鎖港」の新たな宸翰を作成し、それに幕府が添書をして改めて布告することを提案し、了承された。春嶽・宗城・久光を交えた朝議では、請書の文面が曖昧だとの苦情とともに、中川宮から横浜急速鎖港の沙汰書が示された。久光らは急速鎖港は「無謀」だと反論したが、結局、持ち帰って相談の結果、17日に請書を提出するという慶喜の意見で決着した。
しかし、16日になると、中川宮が訪ねてきた薩摩藩士に昨日の沙汰書は偽なので取り消すよう伝えたという話が二条城にもたらされた。だとすると、前日の朝議は偽りだったということになるので、中川宮の真意を確認するため、慶喜は春嶽・宗城・久光とともに中川宮邸を訪れた。
慶喜の詰問に対し、中川宮は偽りとはいっていないと否定した。慶喜は激論の果て、朝議がとかく変化するなら宸翰を願い出ても無益だから、幕府の方から断然鎖港の請書を別途提出すると言って退出した。その流れで、本来開港派の春嶽・宗城・久光も、横浜鎖港不可の矛を収めざるをえなくなり、春嶽は、慶喜の言どおり、横浜鎖港に関する請書を17日に提出することを中川宮に約束した。

おまけに、この日、開港派の参豫諸侯3名は、中川宮の要請で、幕府の請書(横浜鎖港)には異存がない趣の意見書を連署して朝廷に提出することになってしまいました。公式に言質をとられてしまった格好です。中川宮は、15日の朝廷参豫会議で横浜鎖港をめぐって、反対論の宗城・久光に「きびしくきめられ」たことに「大閉口」したと言っていますし、16日のように自邸でまた慶喜に激論されては叶わない・・・という意識があったんじゃないでしょうか??

もともと、慶喜や幕閣は、横浜鎖港の請書を別途差出したいと考えていたという説もありますし・・・、まさに慶喜の作戦勝ち?

(ついでにいうと、中川宮邸での一件は、参豫の御用部屋入りが決まった日でもあります。これを徳川の危機と感じた慶喜が、中川宮の前で酩酊を言い訳にあえて暴言を吐くことで、他の参豫との亀裂を決定的にし、参豫会議を解体に導こうという意図もあったんじゃないかと思っています)。

参考:『続再夢紀事』ニp434-435、『伊達宗城在京日記』p344-345(2010/4/14)
関連:■テーマ別元治1 「参豫会議「将軍への二度の宸翰」」「横浜鎖港問題(元治1)」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊

■会津藩の守護職更迭問題
【江】文久4年2月18日(1864年3月25日)、会津藩主松平容保の陸軍総裁職転任を伝え聞いた江戸の老中は、連署して、守護職更迭反対を訴えました


容保が公武一和が整わないうちに京都を離れれば、変事が起こるかもしれないと心配した老中板倉勝静・井上正直・牧野忠恭が連署して、総裁職松平直克・老中酒井忠績・水野忠精・有馬道純に書簡をもって反対の意を伝えました。

書簡のポイントは以下のとおり。(番号は仮)
(1) 肥後殿(容保)の五万石加増は「御尤之御処置」だと存じる。
(2) しかし、守護職御免・陸軍総裁職就任の「風聞」があり、これには誠に「驚愕の至り」である。もし事実なら「最早迚も御挽回は六ヶ敷義」と「扨々(さてさて)嘆息の至り」である。これは「如何御存念」であろうか。これで「御挽回御為」に成るとの「顕然」の見込みがあるなら、委細の事情を伺いたい。
(3) 「万々一」参豫諸侯の申し立てにより「御論」を貫きかねたのだろうか。「外之義と違、不容易儀」であり、参豫諸侯がなんと申し立てても、「御英断を以て」御取計いできだだろうと、「甚以残念」に存じる。
(4) 肥後殿といえば、「世上一同幕府柱石と」存ぜぬ者は恐らくありもせず、(守護職は)「公論人望之所帰」であり、「真に御一和」が整うまでは、京地を離れられない人物である。(守護職御免・陸軍総裁職就任によって京都を離れれば)「必ず天下之動静に関係し、人心の惑乱」を招き、「如何なる変事」が出来するかも計りがたい。
(5) 「是非何とか御引直しの御工夫」がなければ、「決して御為不相成儀」と「一同寝食を忘れ、心痛」している。「厚く御賢慮」あるよう、ひとえに願いたい。一橋公へも篤と申し上げてほしい。
(出典:『七年史』ニp436-437管理人は素人なのでそのまま資料にしないでね)

参考:『七年史』ニ、『徳川慶喜公伝』3(2002/3/26、2010/4/14)
関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題」、テーマ別文久2「容保VS幕閣・春嶽」■守護職日誌元治1 

■その他の出来事
【京】伊達宗城、会津藩邸での有馬老中・稲葉ら打ち合わせの書付をみる。「格別変候考もなし」(『伊達宗城在京日記』p346)
水口藩家老岡田直次郎刺殺(『維新史料綱要』五)

◆2/17へ ◆2/19へ

3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ