3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴晩景細雨(久光の日記より) ■宸翰請書/横浜鎖港問題 【京】文久4年2月18日(1864年3月25日)、幕府は横浜鎖港の請書を別途伝奏に提出しました。また、春嶽・宗城・久光は連署で請書に異存ない旨の意見書を提出しました。 ●請書の大意は以下のとおり。(番号は仮)
なお、請書及び参豫3名の意見書提出にいたるまでのこの日の主な動き(中根雪江視点)は以下の通り。
<ヒロ> 1月27日の宸翰に対する請書は2月14日に将軍が参内して差し出していました(こちら)。横浜鎖港だけ別途請書を提出することになったのは、以下におさらいするように、慶喜の申し出がきっかけでした。
おまけに、この日、開港派の参豫諸侯3名は、中川宮の要請で、幕府の請書(横浜鎖港)には異存がない趣の意見書を連署して朝廷に提出することになってしまいました。公式に言質をとられてしまった格好です。中川宮は、15日の朝廷参豫会議で横浜鎖港をめぐって、反対論の宗城・久光に「きびしくきめられ」たことに「大閉口」したと言っていますし、16日のように自邸でまた慶喜に激論されては叶わない・・・という意識があったんじゃないでしょうか?? もともと、慶喜や幕閣は、横浜鎖港の請書を別途差出したいと考えていたという説もありますし・・・、まさに慶喜の作戦勝ち? (ついでにいうと、中川宮邸での一件は、参豫の御用部屋入りが決まった日でもあります。これを徳川の危機と感じた慶喜が、中川宮の前で酩酊を言い訳にあえて暴言を吐くことで、他の参豫との亀裂を決定的にし、参豫会議を解体に導こうという意図もあったんじゃないかと思っています)。 参考:『続再夢紀事』ニp434-435、『伊達宗城在京日記』p344-345(2010/4/14) 関連:■テーマ別元治1 「参豫会議」「将軍への二度の宸翰」」「横浜鎖港問題(元治1)」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■会津藩の守護職更迭問題 【江】文久4年2月18日(1864年3月25日)、会津藩主松平容保の陸軍総裁職転任を伝え聞いた江戸の老中は、連署して、守護職更迭反対を訴えました。 容保が公武一和が整わないうちに京都を離れれば、変事が起こるかもしれないと心配した老中板倉勝静・井上正直・牧野忠恭が連署して、総裁職松平直克・老中酒井忠績・水野忠精・有馬道純に書簡をもって反対の意を伝えました。 書簡のポイントは以下のとおり。(番号は仮)
参考:『七年史』ニ、『徳川慶喜公伝』3(2002/3/26、2010/4/14) 関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題」、テーマ別文久2「容保VS幕閣・春嶽」■守護職日誌元治1 ■その他の出来事 【京】伊達宗城、会津藩邸での有馬老中・稲葉ら打ち合わせの書付をみる。「格別変候考もなし」(『伊達宗城在京日記』p346) 水口藩家老岡田直次郎刺殺(『維新史料綱要』五) |
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