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文久3年2月7日(1863.3.25):
【京】浪士対策(8)春嶽、「暴行者を制する」方策として、
鷹司関白に、「有志」の浪士処遇を促す建白を起草

■浪士対策
【京】文久3年2月7日、政事総裁職松平春嶽は、「暴行者を制する」方策として、朝廷が「有志」浪士処遇を決定するよう求める建白を、鷹司関白宛に起草しました。

一昨日、京都守護職松平容保が春嶽を訪ね、浪士を制するために彼らを攘夷の先鋒とするという意見書を渡しました(こちら)が、春嶽はこれに即答しませんでした。「暴行者を制するために外国に対して戦を開く」のは「国家の長計」ではないと思科したからでした。

春嶽は、浪士の活動の裏には、国事御用掛が「暗に此暴行者を頼ミ意見を主張するの後ろ盾と」する状況があるとみて、浪士を制するには先ず、朝議を固めることが重要だと考え、建白書を認めました(提出日は、慶喜・容保らと協議の上で、10日です)。

建白書の概容は以下の通り(意訳、箇条書きby管理人)
今般、(幕府が)攘夷を御請したが (攘夷は)この上ない皇国の大事であるので、「猶以御国内人心一致一和仕」り、叡慮も貫徹する様、日夜祈願していた。最近、上京し、当地の形勢を親しく見聞したところ、「以之外人気激発」し、輦下に「殺伐」が横行している。
畢竟、このような「粉雑を生」じる原因は、少なからぬ「天下之有志」が「憂国慷慨」の余り、国(=藩)を去り、家を棄てて、上京し、心力を尽して「勤王之志」を遂げんと希望するのに、その「情願」が達し難いので、「憤発抑欝」に堪え兼ねて「自然過激之議論」も起こる、その機に「濫行之徒」が乗じるからである。それが「朝廷之御憂念」や洛中の人心の「殊の外驚動」を引き起こしている。
(有志の過激な言動が)「憂国勤王至情」に発し、「二念」がないことは顕然としているので、そこを、よくよく御体察の上、(朝廷が)宜しく御処置されねば、「人心一定安堵」せぬことは当然の勢である。
まして「攘夷の大号令」を発せられた時節である。「忠勇義烈」を奨励されるべき「有志の輩」が憤鬱を抱いていては、「御国内人心一致一和」にも影響するだろう。
(朝廷が)「有志不服の次第」をいかにもそうだろうとお察しになるならば、彼らが「勤王忠勇之至情」に身を投じ、その力を尽し得る「御処置」もおありだろう。早速(参内して)伺いたいところ、風邪にて閉じこもっており、一日遅れれば一日の「憂患を長じ」るだけだと、止むを得ず書面をもって意見を申し述べた。どうか然るべき御朝議をお願いしたい。
(参考:『続再夢紀事』より作成。素人なので資料として使わないでね)

<ヒロ>
容保の案には賛成できない春嶽ですが、だからといって、これという代案もなかったようです。朝議を固めるよう鷹司関白に促していますが、まだ、入京したてで、関白の威権に期待していたのでしょうか。急進派が支配する朝廷に下駄を預けて、その結果、朝議が攘夷&浪士の攘夷先鋒で固まれば、却って身動きが取れなくなると思うのですけれど・・・。文久2年時に比べ、(風邪のせいもあるかもしれないけれど)、どうも精彩を欠くように思えます。やはり、「(横井)小楠を欠いた慶永(=春嶽)には、仕事を期待できない」(松浦玲氏@『横井小楠』)のでしょうか・・・。

<参考>『続再夢紀事』一p364、367-369(2004/4/4)
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